結婚当初はうまくいっていた
しかし、多くの研究者が最初の結婚をわずかな文字数で済ませているのと違い、長谷川は最初の結婚にも多くの文字を割いている。長谷川によれば、親同士の見合いとはいえ、この結婚生活は当初はうまくいっていたようだ。お互い貧乏士族ではあるが夫の為二は教養もあった男のようで、彼に勧められてセツは近松門左衛門の浄瑠璃物を愛読するようになった。
また、当時巷で流行していた六弦の月琴(中国の伝統楽器)も二人でたしなむようになった。とりわけ、物語好きという部分は二人の関係を強めていたようだ。小泉八雲の怪談の一篇「鳥取のふとんの話」は、為二がセツに語ったものだと、八雲の曾孫の凡が講演で語っている。(2024年8月12日付「山陰中央新報デジタル」)
実際、セツは早くに学業を終えたものの読書に親しむなど教養は深かった。後年、息子たちが学校に進み、辞書で調べなければわからない難しい漢字なども一通り知っていたという。こうした経緯もあり、二人の結婚生活は最初は順調そのものだったのだ。
#ばけばけオフショット
— 朝ドラ「ばけばけ」公式 放送中 (@asadora_bk_nhk) October 17, 2025
雨清水傳を演じる堤真一さんの最後の撮影は、トキと銀二郎の結婚シーンでした。
人望の厚い傳さんらしい、とても賑やかな撮影でした。#髙石あかり #寛一郎 #さとうほなみ #円井わん #北川景子 #岡部たかし #池脇千鶴 #小日向文世 #堤真一#ばけばけ pic.twitter.com/VCNdT0ZtfX
しかし、それは次第にうまくいかなくなった。多くの研究者は為二が出奔した理由を貧窮に耐えかね……というふうに記している。確かに、稲垣家では家計をほぼ為二の収入に頼る状況が続いていたようだ。だが、それだけでは出奔の理由と考えにくい。長谷川は、離婚についての下りの中で、次のように記している。
気位が捨てられない“名門の家系”
江戸時代の武家にあっては、原則として、父の家禄を受け継ぐ長男だけが、妻を娶り子供を持つことができたのである。従って、他の男の子たちが、家督を相続する男子がいない、他の侍の家に婿養子として迎えられれば、自分を幸運であると思ったのも当然であった。その後、時代は大きく変わったのだが、婿養子を迎えた稲垣家では、厳格さと気位を捨て得ない老万右衛門が、婿を家風に合わせようとしないではおれなかった。
貧乏な士族に家風もなにもないと思うだろうが、これには理由があった。セツは生家の小泉家から、親戚にあたる稲垣家に養子に出されたわけである。「ばけばけ」での描写をみると稲垣家は小泉家に比べて格段に身分が下のように見えるが、実はそんなことはない。すべて名門の一族なのである。
そもそもセツは、松江藩の高位の武士となんらかの血のつながりがあった。小泉家のほうの祖父・岩苔は代々家老を務めた乙部家から婿養子に入った男である。生母の実家の塩見家も乙部家には劣るが家老の家柄であった。
ようは名門の家系なのである。それが維新後には新たに身を立てることを邪魔していたのだが、同時に気位を捨てることもなかなかできなかった。
