“過去の栄光にすがる家風”が二人を不幸にした

そこに婿養子に入った為二の前田家はどれほどの家柄だろう。これまでの研究者の中に、それに触れている文献はない。

鳥取藩では幕末から明治初年にかけて、藩士に家譜を提出させているのだが、筆者が調べた限り、現存するものには、前田家の名が見られない。ここから察せられるのは、前田家が藩士としては下級であったということだ。

明治維新後には、足軽や陪臣ばいしんも士族に格上げして戸籍に登録することがあったという。そこまでの下級藩士だったとは考えにくいが、とにかく名門である稲垣家に対して前田家は風下に立っていた。ゆえに稲垣家のほうでは「婿養子にもらってやった」という感覚が強かったと推測できる。

維新後に困窮している同士なのだから家柄もなにもあったものではないだろうと思うのだが、稲垣家はいまだに過去の栄光にすがっていた。これが二人の結婚を不幸にしたのである。

こうしたことが積み重なって、為二が出奔したのは結婚から一年もたっていない頃であった。このことも多くの文献が触れているが、特にセツが誰かに語ったというわけではない。唯一『父小泉八雲』には、こう記されている。

“婿養子の籍”は離婚後14年間も残っていた

為二大阪に在りとの報に、使者を遣って帰来するように勤めたが帰らぬので、遂にセツが工面した金を懐中に、迎えに赴いたが到底帰る様子もなく、逆に愛想尽かしの冷言を浴びせられたとか「私は若い頃大阪で、よっぽど橋の上から投身しようかと思ったが、親たちの事を思い云々」等近松の浄瑠璃にでもありそうなエピソードはこの時の事であったらしい。(為二が勤めていたのは県庁であったとも機業会社であったともいうが委しくは不識)

後代の作家や研究者は、この記述を縦横無尽に膨らませてドラマチックに語っているが、セツ自身はわずかなことしか語っていなかったようだ。

こうして、短い結婚生活は終わったわけだが、それで為二と縁が切れたわけではなかった。大阪に迎えにいくも戻らず、事実上の離婚になったのは明治20年。ところが、離婚届が提出されて正式に受理されたのは明治23年1月のことである。しかも、この後も為二は婿養子として稲垣家の戸籍に名前を残している。

これが除籍になったのは、明治34年9月のこと。稲垣家では失踪届を出して、その籍を抹消しているのだ。官報には、当時の松江区裁判所が9月16日付で養母稲垣トミの申し立てにより、養嫡子である為二の失踪を宣告したことが記録されている。

ようは離婚となっても、家の存続にこだわった稲垣家では居所も定かではない為二を跡取りとして、セツとの離婚後も籍を残していたのである。