朝ドラ「ばけばけ」(NHK)では小泉セツをモデルに没落武士の娘トキ(髙石あかり)の苦難の日々が展開。著述家の長谷川洋二さんは「セツの実父・小泉湊(堤真一が演じる雨清水傳のモデル)には妻チエ(同・北川景子演じるタエ)との間に息子が4人いたが、病に倒れたとき頼りになったのは養女に出したセツだった」という――。

※本稿は、長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)の一部を再編集したものです。

セツが生まれた小泉家には4人の息子がいた

小泉家の屋敷は、(養女に出された)稲垣家とは城を挟んでの反対側にあったが、セツは時折、その南田町の生家に連れて行かれた。小泉家には、実の父母のほかに、セツが6歳になる年の初めまでは祖父の岩苔がんたいが、12歳の年の秋までは祖母が生きていた。

そのほかに、10歳年上の長兄氏太郎うじたろう、8歳年上の姉のスエ、2歳年上の武松たけまつ、2歳年下の藤三郎とうさぶろう、それに10歳年下の千代之助ちよのすけと続いていたが、なぜか、セツは実の兄弟たちに親近感が湧かず、一緒に遊ぶことは稀であった。その一方で彼女は、実の父母や祖父たち、それに小泉家の親威たちに関わる劇的な物語のあれこれに、親しんでいったのである。

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と妻セツ、1892年
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と妻セツ、1892年(撮影=富重利平)(写真=PD US/Wikimedia Commons

親戚と言えば、セツは事実上、出雲における高位の侍たちのすべてと、なんらかの血の繋がりがあったと言える。というのも、小泉の祖父岩苔は、幕末に中老に進んだ乙部勘解由家から、小泉家に婿養子に入ったものであり、この乙部家の本家である乙部九郎兵衛家こそ、出雲の、いわゆる代々家老7家の中でも、大橋家と並んで最も有力な家であった。

山陰道鎮撫使の官軍が松江城に入った3日後、官軍の幕僚たちと折衝し、次いで、徳川本家との絶縁と新政府への忠誠とを誓った文書に、「家老首座」として、11名の重臣の筆頭に署名し血判を押しているのは、この乙部家の当主、10代目の乙部九郎兵衛である。

その上、セツの母の実家である塩見家も、時に家老、時に中老を務める、いわゆる「不定家老」の家柄ではあったが、江戸中期の宝暦年間から幕末に至るまで、松江城三の丸御殿の前に、乙部本家に劣らぬ広大な屋敷を構えた有力な家で、セツの祖父に当たる塩見増右衛門こそ、その壮烈な諫死かんしで出雲の歴史を飾った名家老であった。

セツの実父は幕末の動乱で京都や長州へ出動

セツの父小泉湊の侍としての経歴も、若い時ではあったが、波乱に富んだ幕末であったために、決して平凡なものではなかった。

いわゆる安政の大獄で、全国がにわかに緊迫した安政7年(1860)の初め、番頭の父親岩苔は、京都を守る松江藩兵を指揮するために、京都郊外の山崎に派遣された。その時、満23歳の湊は、特別な願い出により、旗奉行雇はたぶぎょうやといの資格で父親に随行し、任地で、大老井伊直弼が江戸城桜田門外で暗殺されるという報に接した。

また、4年後の文久4年(1864)の初めに、藩主松平定安が、将軍家茂の再度の上洛に伴って国元から京都に上った時に、湊はその供を仰せ付かったし、その年の夏から冬にかけての、いわゆる第一次長州征伐には、二之見隊の鉄砲頭として出陣し、今市町の陣に駐屯したのである。