※本稿は、物江潤『現代人を救うアンパンマンの哲学』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
終戦後に初婚の夫を喪う暢の生い立ち
ここで小松暢の生い立ちについて記したいと思います。
1885年、小松暢の父である池田鴻志は高知県安芸村(現・安芸市)で生まれます。1916年には、系列会社から引き抜かれる形で総合商社・鈴木商店に入社。翌年には主任、1919年には釧路出張所長を歴任する優秀な人物だったようです。
鈴木商店といえば、一時期は売り上げが国内総生産の約一割に達するという巨大企業であり、押しも押されもせぬ鈴木財閥の中核でした。そんな大企業の絶頂期に父は入社し、その2年後の1918年に娘である暢が大阪市で生まれたわけですから、当時は裕福な生活を送っていたのでしょう。幼い頃は毛皮のコートを着ていたらしく、やはり豊かな暮らしぶりだったようです。ただし、父は暢が小学校に入学する前後に亡くなっており、その裕福な生活も一時のものだったのかもしれません。
1939年、暢は大阪府立阿倍野高等女学校(現・阿倍野高等学校)を経て、日本郵船株式会社に勤務していた小松総一郎と結婚。召集された小松総一郎は戦地を生き抜くものの、終戦直後に病死してしまいます。小松暢が父とは異なる姓であったのは、総一郎との死別後も小松姓であり続けたからです。
陽気で活動的な高知新聞初の女性記者
1946年4月、小松暢は高知新聞社初の女性記者として採用されます。
「速記の達人」「色白の快活な美少女タイプ」でありながら、金を払わない相手にハンドバッグを投げつけ、たんかを切るといったエピソードが象徴するように、豪快でおてんばというユニークで魅力的な人物だったようです。駐留軍のジープを乗り回し、焼け跡や浮浪者のルポ記事を書いたこともありました。
そんな陽気で活動的な美人であった小松暢が、ベニヤ板で囲っただけのお粗末な編集室で、それもやなせたかし先生の向かいに座っているのです。やなせ先生の目には、掃き溜めに鶴がいるように思えたことでしょう。一目ぼれしてしまうのも無理からぬことです。
しかし、当時のやなせ先生は、プレイボーイとは似ても似つかない奥手の青年である一方、小松暢はいかにも異性からモテそうな勝気な美人です。勝負にならないどころか、どこからともなく絵に描いたような色男がさっそうと現れて、あっという間に奪い去ってしまうような気がします。
実際、ハンドバッグ事件を目撃した外国暮らしの長い紳士は、その美貌と豪快さのギャップにやられたのか一目ぼれし、小松暢に熱烈なアピールをしかけます。品のよい妹を編集部に派遣し、カボチャやミカンといったお土産を度々プレゼントするほど魅了されてしまいました。