ネガティブで自信のないやなせ先生
小松暢は、やなせ先生に紳士から求婚されていることを伝えるとともに「どうしようかしら」と相談します。やなせ先生は「いい人らしいじゃないか、あの人と結婚すればいい」と、思ってもいない最低の返答をしてしまいますが、当時のネガティブなやなせ先生なら、こんな最悪の返事をしてしまうのも仕方がありません。ライバルに勝てる自信がまるで持てなかったのです。
これと似たようなことは、以前にもありました。
やなせ先生が意中の女性とデートをしていたときのことです。その女性もやなせ先生を好いていたようで「殺し文句を言って」と、映画でもなかなかお目にかかれないセリフを吐きます。もはや、その言葉そのものが殺し文句にしか思えません。男性側からすればお膳立ては完全に整っています。
しかし、情けないことに、やなせ先生は口ごもってしまいます。女性から催促されるものの、どうしても殺し文句を吐くことができません。たとえ平々凡々なセリフでもふたりは結ばれただろうに、やなせ先生はしどろもどろになるばかりです。
そうこうするうちにムードはすっかり白けてしまい「あなたっていい人だけどダメね、さよなら」と、付き合ってもいないのに別れを告げられてしまいます。泣きっ面に蜂とはこのことでしょうか。やなせ先生が不憫でなりません。
「やなせさんの赤ちゃんが産みたい」
ところが、今回は全く予期せぬ展開が待ち受けていました。いや、ある意味ではこれしかないという展開だったかもしれません。まるで殺し文句が言えないやなせ先生が誰かと結ばれるのであれば、相手がそれを吐くしかないからです。
さて、亜熱帯風のスコールが行き過ぎたあとの夜の街を、取材帰りのぼくと小松記者は歩いていた。駅のそばだったがひどく暗かった。遠雷が鳴っていた。小松記者は、「もっと雷が鳴ればいい」と言った。その次の言葉は、低くてちょっと聞こえにくかった。
「やなせさんの赤ちゃんが産みたい」
「え?」
なるほど、これが殺し文句か。必殺のひと言でたちまち心は燃えあがり、ぼくは小松記者を抱きしめて、唇を重ねた。腕の中でぐったりと彼女の身体が重くなって、全身の力がぬけていった。遠く紫色の閃光が、ギザギザに暗夜のカーテンを切り裂くのが見えた。その時、ぼくはこの人と結婚しようと決心した。
(やなせたかし著『アンパンマンの遺書』岩波書店、2013年)
勝気さと愛らしさという、一見すると相反するような組み合わせはやなせ先生の作風のようでもあり、それこそがふたりが惹かれあった理由だったのかもしれません。

