中世の瀬戸内海はどのような場所だったのか。名古屋市立大学大学院の川戸貴史教授は「海運の要衝として栄える一方、海賊による略奪行為が横行した。彼らは金銭で手懐けておけば、水先案内人の役割を担った」という――。(第3回)

※本稿は、川戸貴史『商人の戦国時代』(ちくま新書)の一部を再編集したものです。

村上海賊の軍艦の模型。村上海賊ミュージアム所蔵
村上海賊の軍艦の模型。村上海賊ミュージアム所蔵(写真=Alex K/CC-BY-SA-2.5/Wikimedia Commons

経済的に重要だった瀬戸内海海運

中世の日本において瀬戸内海海運が経済的に非常に重要であったことは繰り返し述べてきたが、実際の瀬戸内海の現場ではいったいどのようなことがあったのか。これについては、15世紀の事例になるが貴重な目撃証言があるので、次に紹介したい。

その証言をしたのは、京都を目指していた朝鮮王国(李朝)からの外交使節だった。

現代人もしばしば旅に出て非日常の世界を体験して心を奪われるように、当時の人もまた非現実体験は強い印象を与えたに違いない。

つまりこの外交使節が見た風景は、瀬戸内海を行き交う人々にとってはたわいもない日常であったが、それを見慣れない人にとっては特別なものに映った。

そのため彼は記録に遺し、我々はそれを追体験することができるのである。

その外交使節の名は、宋希璟そうきけい。そして彼が遺した史料は『老松堂日本行録』と呼ばれている。

宋希璟が朝鮮の使節として京都へ向かった背景について説明しておこう。

応永26年(1419)、朝鮮半島沿岸部で度々発生する海賊による略奪行為に対し、朝鮮はその集団を対馬つしま(現長崎県対馬市)から来寇らいこうした「倭寇わこう」によるものと断定し、鎮圧を図るために対馬を攻撃した。

この事件を日本では「応永おうえい外寇がいこう」と呼んでいる。