文豪の創作の原動力は何だったろうか。谷崎潤一郎は「文学的感興」という名の“ムラつき”が創作の鍵だったという。歴史エッセイストの堀江宏樹さんが書いた『文豪 不適切にもほどがある話』より紹介しよう――。

※本稿は、堀江宏樹『文豪 不適切にもほどがある話』(三笠書房)の一部を再編集したものです。

秋の熱海梅園
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創作の鍵は「文学的感興」という名の“ムラつき”

明治19(1886)年、東京・日本橋人形町に無気力な父親と、気の強い美人の母親の間に生まれた谷崎潤一郎たにざきじゅんいちろう

谷崎潤一郎
写真提供=国立国会図書館
谷崎潤一郎

最晩年に至るまで「文学的感興」という名の“ムラつき”こそが谷崎文学の「鍵」なのでした。

亡くなる2年前の昭和38(1963)年、新作の取材で、44歳年下の親族の人妻・渡辺千萬子わたなべちまこと熱海の梅園ホテルに滞在していた谷崎は、「話をしている最中に突然」千萬子に向かって「五体投地のように目の前にばたっとひれ付して、頭を踏んでくれ」と言い出しました。

千萬子は谷崎の晩年の名作にして、世間の注目を集めた『瘋癲老人日記ふうてんろうじんにつき』に登場する若奥様・颯子さつこのモデルだとささやかれた女性でしたが、千萬子いわく「年齢が四四も違うということは別に問題ではなかった」が「谷崎に男性を感じたこと」はない。

しかし、千萬子は「非常にめていて冷静」に谷崎の頭を「言われるままに踏んだ」のでした。

谷崎は千萬子への手紙の中で、「あなたの仏足石ぶつそくせきをいただくことが出来ましたこと」が「生涯忘れられない歓喜」(昭和38年8月21日)とホクホクしていたようです(以下、千萬子と谷崎の手紙は『谷崎潤一郎=渡辺千萬子 往復書簡』から)。