「学歴なんて必要ない」と声高に叫ぶ国内外のドラマや物語は少なくない。しかしそれでも学歴に期待が寄せられるのはなぜなのか。組織開発専門家の勅使川原真衣氏は「学歴は企業から見て“仕事でも頑張れる人なのかどうかのシグナル”になっている」という――。

※本稿は、勅使川原真衣『学歴社会は誰のため』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

いじめ
写真=iStock.com/LSOphoto
※写真はイメージです

「学歴=仕事のパフォーマンス」という解釈

学歴による賃金格差、また学歴の再生産、その不平等さの問題に次いで、研究者たちが学歴を眺め直す視点には「学校教育で教わったこと×仕事内容」の整合性の問題もあります。

というのも、学歴が仕事を采配していくのであれば、学歴(学校システムにおいて測定される範囲の学力)と仕事のパフォーマンスとに密接な関係性が見られてしかるべきです。が、実際にはどうなんでしょうか。逆に問うならば、学歴は何の象徴として、職業采配機能を担うまでの存在に成りあがったのでしょうか。1つずつ見てみましょう。

「社会に出たら学歴なんて関係ねぇ!」説

とある不良軍団に参与観察・インタビューの形で迫る、社会学者(ポール・ウィリス)。彼のインタビューの様子が次です。

筆者(ポール・ウィリス)
「きみたちにはあって、〈耳穴っ子〉(優等生一派を指す)にはないってものが、なにかあるかい?」
スパイク(という名の不良少年グループの一人)
「ガッツ、決心……。ガッツじゃなくて厚かましさかな……連中よりもおれたちのほうが世の中を知ってるよ。やつら、数学や理科ならちょっとは知ってるかもね、でもそんなこと、どうってことないや。あんなものだれの役にも立つもんか」(括弧内、および太字は筆者による)

──これは社会階層・再生産研究の代表作の1つ、ポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ども』からの引用です。私も修士課程時代に読みました。

この本の主人公たちは、いわゆる最底辺の暮らしを親の代からしてきています。さぞ彼らは学歴社会を恨んでいるのかと思えば、彼らは彼らで「男らしさ」「からだで稼ぐ」(肉体労働)などのコミュニティ内の規範を内面化し、「能力主義競争にコミットすることを忌避して、学習=労働に自己限定的に関わろうとする」姿がエスノグラフィックに描かれています。

前掲の不良少年の語りにもありますね。学校の勉強なんて「だれの役にも立つもんか」と。ましてやその学びの遍歴なんてのが、社会生活でも作用するなんてばかばかしい、と言わんばかりですが、ここのポイントは、社会階層の低い側がそう思い込むことで、最底辺の肉体労働者の道しか残っていない自分たちを鼓舞するメカニズムが描かれている点です。言い換えれば、学歴はウィリスが分析対象にしたイギリスでも、しかと職業を采配しているのです。