自著のないイチローで語られる教訓
野球ではどうでしょうか。TOPIC-1では金田正一さん、長嶋茂雄さん、王貞治さん、江川卓さん、清原和博さんの著作をそれぞれとりあげましたが、これらはいずれも自伝的著作でした。清原さんといえば、その対になる存在として桑田真澄さんが思いつきますが、彼はこれまでに紹介してきたサッカーや水泳選手の自己啓発的な物言いとは異なる、独自の、求道的といってもよいような考え方をもっています。
ここでは2010年の『心の野球——超効率的努力のススメ』を例にしましょう。桑田さんが重要視するのはスポーツマンシップです(7-8p)。礼儀正しく、謙虚に、一つ一つのプレーに手を抜かず、道具を大切にし、努力と鍛錬を続け、他人に感謝するといった人間性を桑田さんは重要視するのです。こうした人間性を重視するスポーツマンシップのことを、桑田さんは「野球道」(231p)と表現していました。
次の世代の代表的な選手といえば、イチロー(鈴木一朗)さんと松井秀喜さんでしょう。まず2007年のベストセラーである松井さんの『不動心』をみると、その基本的内容は2006年シーズンに左手首を骨折して以後に松井さんが怪我に苦しみ、悩み、そして立ち直っていくプロセスが語られるエッセイです。そうしたエッセイのなかで、時折、「過去の自分をコントロールすることはできません。しかし、未来の自分はコントロールできます。少なくとも、過去よりは思い通りにできる可能性を秘めています。それならば、前に向かうしかありません」(63p)等の啓発的な言及がなされはするのですが、それらは散見される程度に留まっています。
次いでイチローさんですが、彼には自著がありません。しかし、1994年にシーズン210本安打という当時の日本記録を達成して以後、彼の一挙手一投足、その独特な発言、およびその背後にある独特な考え方には非常に濃密なまなざしが注がれてきました。
国立国会図書館サーチを用いて、「イチロー」もしくは「鈴木一朗」をタイトル・サブタイトルに含む(同名の他人に関するものは除く。文庫版、改訂版は含む)書籍数を集計したものが下図ですが、1994年からの日本における活躍、2001年の渡米とその活躍、2004年のシーズン262安打達成、2006年と2009年のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の優勝といった大きな出来事を経つつ、幾度も著作刊行の波が来ていることがわかると思います。その活躍の軌跡、育てられた環境、イチローに学ぶメンタルトレーニング、その哲学等々、多くの人がイチローさんを通して何かを語り続けているという状況がこの20年間続いています。いわば「イチロー」という出版ジャンルがあるとさえいえるかもしれません。
これはテレビや新聞、雑誌などを通しての観察にすぎませんが、イチローさんはことさら、他人を啓発することに情熱をもっている人ではないように思われます。しかしそれに比して、『イチロー式成功するメンタル術』『イチローは「脳」をどう鍛えたか』『イチローの哲学』『イチローの流儀』『夢をかなえるイチロー力』等々、人々はイチローさんから教訓を引き出そうとし、自己啓発的な物言いの文脈に彼の言動を落とし込んできました。その意味で、本人が意識しないところで、結果として彼もまた自己啓発の世界への「アクセス・ポイント」になっているように思われます。