真夜中の戸

続く記事は、次の通りである。

渡殿わたどのに寝たる夜、戸を叩く人ありと聞けど、おそろしさに音もせで明かしたるつとめて、
夜もすがら 水鶏くひなよりけに なくなくぞ 真木まきの戸口に 叩きわびつる
返し、
ただならじ とばかり叩く 水鶏ゆゑ あけてはいかに くやしからまし

(渡殿の局で寝ていた夜、聞けば誰かが戸を叩いている。おそろしさに、私は声も出さず夜を明かした。すると翌朝、次のような歌を受け取った。
一晩中、私は泣きながらあなたの部屋の戸を叩きあぐねていました。あの、戸を叩くような声で鳴く鳥の水鶏くいなより、もっと激しく泣いていたのですよ
私はその場で返事を書いた。
ただ事ではない、確かにそう思わせる叩き方でしたわ。でも本当はほんの「とばかり」、つかの間の出来心でしょう? そんな水鶏さんですもの、もし戸を開けていたらどんなに後悔することになっていたでしょう)

(『紫式部日記』同前)

2人の和歌は「恋の歌」として記録された

渡殿は、紫式部が道長の土御門殿滞在中に局を与えられていた場所である。その戸を、真夜中に叩く音。それも何度も、忍びやかに、しかし性急に。男だと、紫式部はすぐに気づいた。だが怖くて逢瀬を拒んだというのである。

山本淳子『道長ものがたり「我が世の望月」とは何だったのか――』(朝日新聞出版)

そして翌日の和歌のやりとり。昨夜の冷たい仕打ちをなじりつつも、まだ未練たっぷりの男の和歌に、紫式部は切り返す。あなたを部屋に入れないで良かったと。

戸を叩いた人物が誰だったかを、『紫式部日記』は明かしていない。もちろん、彼女自身はわかっていたに違いない。翌朝の和歌はどのようにして届いたのか。そのこと一つだけでも、推測は成り立つ。

だから当然、意図して書かなかったのだ。だが、前の「梅の実」のやりとりから続けて考えれば一目瞭然だ――。そう思った読者たちは、これを道長と紫式部のラブ・アフェアと断定した。

その約二百年後の鎌倉時代(十三世紀前半)、藤原定家が撰者を務めた勅撰集である『新勅撰和歌集』は、この二つの和歌を「恋」の部に載せ、「夜もすがら」の作者は「法成寺入道前摂政太政大臣」つまり道長、返歌の「ただならじ」は「紫式部」とはっきり示している。現代にまで及ぶ「御堂関白道長妾云々」疑惑は、こうして始まったのだった。

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