現代ならセクハラとパワハラで一発アウト

源氏物語』は、色好みの主人公・光源氏の面白おかしい恋愛遍歴を綴った物語だと、道長は思っていた。彼は『源氏物語』を読んでいたか、少なくともあらすじは知っていたのである。

そこで手頃な紙を探し、折よく彰子のために用意されていた完熟の梅の実の下からすっと懐紙を抜き取ると、すらすらと和歌を書いて紫式部に示した。道長は日常生活のなかで、こうした風流を楽しむ人物だったのである。

しかもその和歌は、梅の実と紫式部を表裏に掛けた優れものだった。梅は甘酸っぱく、人に好んで折り取られる。同様にお前は「好きもの」で、男から好んで誘われるのだろうと。『源氏物語』の作者であるからには実際の恋愛経験も豊富なのだろうという、からかいである。

日本の梅
写真=iStock.com/undefined undefined
※写真はイメージです

現代の世でこうしたことを小説家に言いかけたりしたら、即座にセクハラと指弾されよう。道長の場合は紫式部のスポンサーでもあったので、パワハラでもある。

「乙女」からの当意即妙な切り返し

しかし、紫式部はいわゆる〈#わきまえない女〉だった。大人しく黙っているのではなく、即座に和歌で言い返したのである。ただ、平安時代にはこうした切り返しこそが女房としての〈わきまえ〉の見せどころとされていたから、これは道長の期待に応える態度でもあった。

彼女は道長の和歌の隣に、これもさらさらと書きつけたのだろう。彼の和歌の趣向をそのまま受けて、梅の実と自分を掛けた和歌である。梅の実と言っても、まだ枝を折られてもいない場合には、酸いかどうかはわからない。そのように、自分は男に手折たおられたことがない――男を知らない〈乙女〉。なのに、「好きもの」だなんてどういうことでしょう?

紫式部が過去に結婚し子供ももうけていることは、その場の誰もが知っている。だからこの和歌は、「心外ですわ」とすねてみせる紫式部の演技も含めて、道長の大笑いを誘ったはずだ。

これは、『源氏物語』が生きて楽しまれていたことを示す一場面である。道長は『源氏物語』の内容を彼なりに踏まえ、作者を彼なりに認め、持ち上げた。その空気は、紫式部の作者としてのプライドを満足させただろう。返歌での切り返しも見事にできた。

だからこそ読者は、そこにはただの色事ではない、『源氏物語』風の空気を感じ取る。紫式部の返歌に笑いながら、道長の目には彼女への関心が宿ったのではないか。この作者、面白い女だ――とばかりに。読者の予感は、『紫式部日記』の次の場面への展開によって確信につながる。