しかし、当然のことながら、このような形でルサンチマンを解消し続けても「自分らしい人生」を生きることは難しいでしょう。ルサンチマンは、社会的に共有された価値判断に、自らの価値判断を隷属・従属させることで生み出されます。

自分が何かを欲しているというとき、その欲求が「素の自分」による素直な欲求に根ざしたものなのか、あるいは他者によって喚起されたルサンチマンによって駆動されているものなのかを見極めることが重要です。

ルサンチマンに囚われた人は価値判断を転倒させたがる

さて、ここまでルサンチマンに囚われた人が典型的に示す一つ目の反応として、「ルサンチマンの原因となる価値基準に隷属、服従する」ことの危険性を指摘してきました。ここからは、二つ目の反応である「ルサンチマンの原因となる価値判断を転倒させる」ことの危険性について考察しましょう。

ニーチェがルサンチマンを取り上げて問題視したのも、この二つ目の反応についてでした。ニーチェによれば、ルサンチマンを抱えた人は、多くの場合、勇気や行動によって事態を好転させることを諦めているため、ルサンチマンを発生させる元となっている価値基準を転倒させたり、逆転した価値判断を主張したりして溜飲を下げようとします。

ニーチェはキリスト教を例に挙げて説明します。

ニーチェによれば、古代ローマの時代、ローマ帝国の支配下にあったユダヤ人は貧しさにあえぎつつ、富と権力をもつローマ人などの支配者を羨みながら、憎んでいました。しかし現実を変えることは難しく、ローマ人より優位に立つことは難しい。そこで彼らは復讐のために神を創り出した、というのです。

つまり「ローマ人は豊かで、私たちは貧しく、苦しんでいる。しかし天国に行けるのは私たちの方だ。富者や権力者は神から嫌われており、天国には行けないのだから」ということです。神という、ローマ人より上位にある架空の概念を創造することによって「現実世界の強弱」を反転させ、心理的な復讐を果たした、というのがニーチェの説明です。

「高級フレンチなんかよりサイゼリヤ」はルサンチマンの典型

ルサンチマンの原因となっている劣等感を、努力や挑戦によって解消しようとせずに、劣等感を感じる源となっている「強い他者」を否定する価値観を持ち出すことで自己肯定する、という考え方です。このような主張は現在の日本においてもそこかしこに見られます。

例えば「高級フレンチなんて行きたいと思わない、サイゼリヤで十分だ」というような意見がその典型例です。

日本のサイゼリヤのミラノ風ドリア(写真=KKPCW(Kyu3)/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons