文化的素養に欠ける薩長の限界

日本固有の文化や歴史的景観を守るという発想が明治政府になかった不幸である。日本は鎖国政策のせいで、世界の動静の埒外であった期間が長かった。それだけに、欧米との格差を埋めることに躍起になり、欧米人が大切にしているアイデンティティの維持に目を向けることができなかった。

維持費を考えれば、全国の城すべてを保存対象にするのは無理だっただろう。だが、政府関係者が城を文化財としてとらえる視点を少しでももっていれば、状況は違っていたと思われる。新政府を牛耳った人たち、すなわち文化的素養に欠ける薩長の下級武士たちの限界がそこにあったといえよう。

「廃藩置県」に大きくかかわった木戸孝允(出典=国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

無教養の元下級武士たちが断行した廃藩置県で「死刑判決」を受けた城は、その後どうなったか。平成27年(2015)に天守が国宝に指定された松江城を例に見たい。

松江城は「存城」になったにもかかわらず、すべての建造物の払い下げと解体が決まり、所管する広島鎮台の判断で明治8年(1875)に入札が行われ、9棟の櫓に門、御殿など、すべてが民間に払い下げられた。落札金額は米1俵が3円弱だった時代に、1棟4~5円程度(現在の貨幣価値で3万円程度か)と格安だった。

じつは天守の入札も行われ、180円(現在の貨幣価値で100万から120万円程度か)で落札されている。

キツネやタヌキの巣窟に

ただ、天守に関しては救世主が現れた。元松江藩士の高城権八は、天守が落札されたと聞くと、松江藩のもとで銅山の採掘に携わった豪農で、和歌や書画にも通じる文化への理解者でもあった勝部本右衛門栄忠と景浜の父子に相談。勝部父子は落札金額と同額を広島鎮台に納め、天守を180円で買い戻したのだ。

だが、『島根縣史』九にはこう書かれている。「元出雲郡の豪農勝部本右衛門藩士高城権八等と相議り落札高の金を納めて天守閣破壊は辛ふじて免れたるも其他の建造物は日ならずして解き払はれ荒涼たる廃墟を現出せり」。天守は残ったが、ほかの建物がみな失われ、城跡は廃墟になったという内容である。

辛うじて残った天守も、やはり放置され、荒廃するにまかされた。明治20年代中ごろに撮影されたと思われる古写真をみると、漆喰ははげ落ち、屋根瓦は随所で破損し、下見板は損壊し、二重目の大入母屋の軒は波打ち、そのうえ屋根には穴が開き、早晩、全壊しそうな様相である。

明治19年(1886)4月24日付の『山陰新聞』には、「松江城天守閣の追年破壊し居て周囲は草茫々恰かも狐狸の巣窟となれるのを」と書かれている。キツネやタヌキの巣窟となっていたという表現からも、天守の荒廃ぶりが伝わる。