三菱の名を冠していない企業は、なぜ追加メンバーになった?
戦後の財閥解体の一環として三井・三菱・住友商号の使用禁止令が出た。三大財閥の企業は連絡を取り合い、資金を拠出し合って、米国の弁護士や吉田茂首相に根回しをして最終的にこれを撤回させることに成功した(商号・商標防衛問題)。その時のメンバーが「三菱金曜会」を結成したものと思われる。
旭硝子は戦時中、三菱化成工業に合併していたことから、この運動に参加していたのだろう。旭硝子の社長は「本来、グループ企業が『三菱』の名を社名に付けるには、商標委員会の許可が必要だ。しかし、旭硝子の場合は許可なく自由に『三菱硝子』と名乗れる権利がある」(『週刊東洋経済』1998年5月23日号)と語っている。これは商号・商標防衛問題に参加して応分の資金を拠出し、三菱商号使用の権利を獲得したからであろう。
しかし、「三菱金曜会」メンバーの中には三菱商号を冠していない企業や戦後発足の企業もいる。これらはどういった経緯からメンバーに昇格できたのだろうか。
旭硝子の社長は「本来、グループ企業が『三菱』の名を社名に付けるには、商標委員会の許可が必要だ」と語っている。三菱商号・スリーダイヤ商標を使用するには許可が要るのだ。それを決めるのが「三菱金曜会」の下部組織「三菱社名商標委員会」である。
「将来つぶれない保証がある会社」だけが三菱の商号を許された
「『三菱』を付けるには、三菱各社の社長の集りである金曜会の中に10人ばかりの委員がおりまして、そこでまず審議をする。そこでは内規がありまして、例えば過去3年以上黒字を継続している会社であるとか、あるいは資本金が10億円以上であるとか、また将来ともつぶれない保証がなければならない、というような内規があるわけであります」(『三菱鉱業社史』)。
これは三菱商号の認可に関する証言であるが、三菱商号の認可に内規があるならば、「三菱金曜会」加入に内規があってもおかしくない。筆者が1960年代の「三菱金曜会」メンバーとメンバー外の境界線を線引きしたところ、従業員1000人、資本金10億円、売上高150億円、利益10億円以上が当時のボーダーラインだったようだ(他にも条件があるかもしれないが)。
また、「三菱金曜会」の役割は、当初の商号・商標管理から、1960年代には「BUY三菱」(三菱製品を買いましょう)運動などのグループ戦略推進の場に変容した。そのため、東京海上火災保険や明治生命保険のような、グループ内消費に関連の強い直系企業以外のメンバー参加が望まれたのだろう。