内裏は焼失、心労を重ね眼病に

むろん、三条天皇は道長の心中を察していただろうから、冷戦は期せずして起こることになった。その端的な例が、すでに「光る君へ」で描かれた、道長の三男である顕信あきのぶの出家だった。

三条天皇は道長を取り込もうと、道長の次妻の明子(瀧内公美)が産んだ顕信(百瀬朔)を、天皇の秘書官長である蔵人頭に抜擢しようとした。ところが、三条の術中にはまりたくない道長が断ったため、出世の機会を奪われて傷ついた顕信は寛弘9年(1012)正月、不意に出家してしまった。

その後は道長と三条天皇のあいだに波風が立つことが多くなった。ドラマでは三条の渡りがないと道長が心配していた姸子は、長和2年(1013)7月、禎子内親王を出産。それはいいのだが、姸子が内裏に戻った直後の長和3年(1014)2月9日、内裏が焼失した。

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それから1カ月も経たない3月1日、実資の日記『小右記』によれば、三条天皇は実資の養子の資平に、「ここ数日、片目が見えず、片耳が聞こえない」という旨を語った。道長と対立した挙句、内裏まで焼失し、心労をかかえた末の眼病だったと考えられている。しかも、3月12日にも火事があって、天皇のもとに代々受け継がれてきた数万もの宝物が焼失した。三条天皇の消耗ぶりは、いかほどだったことだろうか。

三条にとっては踏んだり蹴ったりの状況だったが、道長はこれがチャンスとばかりに3月25日、三条天皇に譲位を求めたのである。

道長の日記から削除された記事

じつは、道長の日記の『御堂関白記』は、この長和3年の記事が最初からごっそりと抜けている。倉本一宏氏は「眼病を患った三条天皇に対し、道長が退位を要求したこの年の記事は、その内容の重要性もあって、道長自身が『破却』した可能性が考えられる」と書く(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)。

この年、道長は三条天皇に、えげつなく譲位を迫り続けたということではないだろうか。

いかばかりか道長をかばうなら、天皇が病気で政務や儀式に支障が生ずれば、宮廷社会で信任を得られないので、譲位を迫るのに道理がないわけではない。だが、ともかく、道長を筆頭とする公卿たちによる三条退位に向けた作戦は、長和4年(1015)にピークに達する。

たとえば、『小右記』には4月13日のこととして、三条天皇が藤原隆家に語った話が記されている。「私の心地が非常にいいのを見て道長は不愉快になった」と三条は漏らしたそうで、実資は日記で道長を「大不忠」と罵っている。同じ『小右記』によれば8月19日、三条天皇は資平に、「道長がしきりに譲位を促してくる」と嘆いたという。

10月15日、三条天皇は最後の抵抗を試みる。娍子とのあいだに産まれた次女である女二宮(禔子内親王)を、道長の嫡男、頼通に降嫁させたいと持ちかけた。

だが、その間も三条天皇の眼病は回復せず、11月17日には、三条天皇が再建に心を砕いた内裏がふたたび焼失した。はたして偶然の災害だったのだろうか。三条の心中は察するに余りあるが、道長はこれを機に、さらに強く譲位を求めている。また、頼通が重病になったため、三条天皇肝煎りの女二宮との縁談も破談になった。