「やっと帝になれた」の意味

その後、病に倒れた道長からの辞表を受けとった三条天皇は、辞表は返すのが先例であるのに、「返したくないがのぉ」とつぶやいた。

「光る君へ」では、三条天皇と道長がこうして、対抗心をぶつけ合う様子が描かれているが、史実においても2人は冷戦状態にあった。道長の辞表を「返したくない」、すなわち、道長にここまま辞めてほしいというのは、三条の本心だったと思われる。

第42回には、藤原実資(秋山竜次)のもとに三条天皇からのメッセージが届けられ、そのなかに「やっと帝となれたゆえ、政を思いきりやりたい」という言葉があった。これは三条天皇を理解するキーワードといえる。というのも、三条は前帝の一条天皇より4歳年上で、事実、一条天皇の御代が25年も続いたのちに、「やっと帝になれた」のである。

年齢の逆転現象が起きた理由は、いわゆる「両統迭立」にあった。この時代、ともに村上天皇の皇子だった兄の冷泉天皇と弟の円融天皇の系統が、交互に即位することになっていた。このため、花山天皇(冷泉天皇の第一皇子)の次には一条天皇(円融天皇の第一皇子)が即位。このねじれのせいで、一条天皇より年長の三条天皇(冷泉天皇の第二皇子)の即位が遅れたのである。

一刻も早く辞めてくれないか…

したがって、三条天皇が政に思う存分精を出したいと思うのは当然だったが、道長はそれでは困るのである。

三条の即位にあたり、道長は一条天皇の第一皇子だった敦康親王を排除し、自分の外孫である敦成親王を東宮にした。むろん、それは敦成親王を即位させ、みずからは摂政となって実権を握り、自身および自身の家系による権力基盤をさらにたしかなものにする、という目的があってのことだった。

しかも、三条天皇が即位した寛弘8年(1011)6月の時点で、道長は数え46歳。この時代には40歳をすぎればもう老齢で、しかも「光る君へ」ではあまりそのようには描かれなかったが、道長は案外病弱で、飲水病(糖尿病)の持病もあった。それだけに、自分の目が黒いうちに、できるだけのことを成し遂げたいという思いが強かったと思われる。

したがって、三条天皇の治世は道長にとっては、無駄な時間だったというほかない。「三条天皇が即位したその時から道長の心は秒読みを始めていたに違いない。早く、一刻も早く辞めてくれないかと――」という山本淳子氏の指摘(『道長ものがたり』朝日選書)が、道長の心情を端的に表している。