「世界記録」に挑戦しなかった理由

廣瀬は2016年のバーティカルブルーに出場した際、100メートルという深度を思い切って申告することもできたはずだった。だが、結果的にそれをしなかった理由について、彼女は次のように語った。

「99メートルと100メートルの違いは、理論的にはほとんど変わりません。水圧や身体が受ける影響は時間にして2~3秒、ちょっと増えるかなというくらいのものです。でも、そのことを頭では分かっていても、『100メートル』という記録は心に重くのしかかっていました。『まだ今の私には届かないところだな』という思いがあって、その記録に挑むのはもう少し後に取っておこうかな、と感じたんです。翌年、新しく100という数字からスタートして、次のステージに入っていくべきだ、と自分の心と身体が言っているような感覚でしたね」

そして、2016年の大会の後、廣瀬は明確に「100メートルオーバー」を意識したのである。当時の女子のCWTの世界記録は101メートル。それを超えることを目標に設定し、「世界記録に向けてのトレーニング」を行っていく。実際の記録そのものよりも、その「未知」の場所に至るまでのプロセスこそが自分には必要だった、と彼女は言うのだった。

そして2017年4月、2年連続の出場となるバーティカルブルーで、廣瀬は100メートルを申告した。このとき、100メートルをベットした時点で、すでに一つの目標を乗り越えた満足感が胸裏に広がってきた、と話す。

「いいダイブだった」と確かに思えた瞬間

「確信をもって迷いなく『100メートル』と申告できた時点で、ダイブの半分は成功したような気持ちでした。フリーダイビングの世界には、『いいダイブ』という言葉があるんです。ダイブの始まりから終わりまでの感情が整っていると、潜り終えた時に『いいダイブだった』と確かに思える。そんな瞬間を私は求めているんです。

失敗したらどうしよう、とか、うまくいかなかったらどうしよう、という気持ちが心に生じている状態では、たとえ記録が出せたとしても、ダイブがとても『人間的』になってしまう。一方で『いいダイブ』は本能的です。まるで海に溶け込むように自然とボトムにたどり着き、気づいたら水面に上がってきていた、という感覚があります。100メートルという記録よりも、その場所に迷いなくたどり着いて戻ってこられるかどうか、ということを私は大事にしたかった。だから、2017年のバーティカルブルーのとき、そんな心の状態を1年かけて自分が作れたこと自体に、私はすでに満足していました」

廣瀬はこの日、1度目のダイブで100メートルを記録し、2度目のダイブでは女子の世界記録となる103メートルという深度に到達した。この記録は続いてダイブを行ったイタリア人ダイバーのアレッシア・ゼッキーニによって破られるが、そのとき廣瀬は確かに自分にとっての「極地」と言える場所にたどり着いたのである。

当時の女子世界記録、103メートルを成し遂げ、仲間と喜びを分かち合う廣瀬さん(「HANAKO」YouTubeチャンネルより)

では、このとき彼女は100メートルという深海に潜ることで、どのような世界を体験したのだろうか。