母のお腹を開けたら、何も入っていなかった瞬間

【藤原】どの病院に行っても置かれた場所で咲くというのが一番。でもどの場所でも大きな花を咲かせるのは実際には難しい。『居場所。』を読みながら、私は花を咲かせることはできなくても、根っこ1本だけでも地面の中で伸ばそうと思っていたことを思い出しました。

『居場所。』の文章で、がんを長年患っておられたお母様のお腹を開けたら、何も入っていなかったという一節が印象に残っています。私も婦人科病棟で看護師をしていた時期があり、同じような患者さんを看たことがありましたので号泣してしまいました。

【大﨑】(首を振りながら)本当に内臓も何もなかったんです。コバルト光線かなんかあてたせいで、内臓が溶けているので、縫おうとしても糸が抜けると言われました。

1日に何回も消毒しないといけないというので姉は手伝っていたんですけれど、男は情けないですね、見るのも怖いし、何もできない。病院の外に出て煙草を吸っていました。

【藤原】本当はお母様の側にいたいけれど、逃げるしかなかった。その辛い気持ちもなんとなく分かります。ところで、あのとき大﨑さんの勤務先は東京ですよね? 関西の病院まで通っておられたんですか。

朝一の新幹線で東京に戻り仕事をした2年間

【大﨑】母親が死にかけているのに仕事してええのかなと思っていました。とはいっても仕事を辞めたら病院代払われへん。そこで編み出したのは、仕事が終わって(東京発)最終の新幹線に飛び乗って、新大阪まで行く。

夜中の12時ぐらいに病院に着いて、朝まで喋ったり、手を握ったりして、朝一番か二番の新幹線で東京に戻って、何食わぬ顔で仕事していました(笑い)。2年ぐらいそんな生活しましたかね。

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【藤原】2年もですか? 身体がよく持ちましたね……。

【大﨑】あのとき、ぼくは週刊誌に、あることないこと書かれました。まだ若かったんで、一つひとつ内容証明を出して、対応していました。母親の病院に通いながら、週の3、4日は弁護士事務所に行っていたかもしれない。

あるとき女性の弁護士の方が担当になったんです。お袋の看病で大変ですってこぼしたら、彼女はこう言ったんです。「看護できるのも幸せですよ」って。それもそうやなと思った(笑い)。