ショックで仏門に入った側室の子
まず、倫子腹の男子は長男の頼通も五男の教通も、関白太政大臣という、臣下としては考え得る最高位にまで出世した。
一方、明子が産んだ男子は、次男の頼宗が右大臣になったものの、四男の能信と六男の長家は権大納言止まりだった。むろん、一般にはまずまずの出世なのだが、倫子の息子とのあいだの格差は歴然としていた。
長保3年(1001)10月9日に起きたことを、藤原実資は『小右記』に記している。この日、道長の姉で一条天皇の母、詮子の40歳の祝いが、道長が住む土御門殿で行われ、10歳の長男頼通が「蘭陵王」を、9歳の次男頼宗が「納蘇利」を舞ったという。
これを観ていた一条天皇は、とくに頼宗の「納蘇利」を気に入り、褒美をつかわした。すると、道長は露骨に不機嫌になった。居合わせた人たちは、「蘭陵王は正妻の子だが、納蘇利は側室の子で道長の愛情が浅い。それなのに、側室の子だけ激賞されたから道長は立腹したのだ」と言い合ったというのだ。
また、寛弘8年(1011)年末のこと。三条天皇は道長の三男で明子が産んだ顕信を蔵人頭、すなわち天皇の側近中の側近である秘書室長に抜擢しようとした。むろん、18歳の顕信は大よろこびだったに違いないが、道長はこの人事を断ってしまった。
道長は、そのときの政治状況を読んだのだろうし、自信が考えている息子たちの秩序を乱されたくないという思いもあったのだろう。だが、顕信はかなりのショックを受けたようで、1カ月後の長和元年(1012)正月16日、突然、出家してしまったのだ。
娘にも大きな格差
娘たちの嫁ぎ先も、その差は歴然としていた。倫子が産んだ娘は、長女の彰子が一条天皇の中宮になったのを皮切りに、次女の姸子は三条天皇の中宮、四女の威子は後一条天皇の中宮になった。
六女の嬉子は、中宮にはなれなかったが、それは入内した東宮(皇太子)が後朱雀天皇として即位する前に没したからにすぎない。要は、全員を天皇や東宮のもとに入内させ、正室にしたのである。
では、明子が産んだ娘はどうか。三女の寛子は19歳で、三条天皇の第一皇子である敦明親王の女御になったものの、その時点で親王は即位への道が断たれていた。また、五女の尊子は22歳で源師房のもとに嫁いだ。
この師房は村上天皇の第七皇子であった具平親王の子で、臣籍降下しているとはいえ天皇の孫ではある。しかし、倫子の娘が4人とも天皇や東宮に嫁いだのとくらべると、明らかに差がつけられている。『栄華物語』によれば、兄の頼宗や能信もこの縁談には、さすがに納得できなかったという。