うなぎを目当てに団体ツアー客が連日押し寄せた
西鉄柳川駅から南西に約3キロメートル離れたエリアに立地する御花は、総面積7000坪の敷地に、日本庭園の「松濤園」、西洋館、立花家史料館、ホテル、レストランなどを持つ。松濤園を含む敷地全体が「立花氏庭園」として国指定名勝になっている。
ここは元々、柳川藩主5代目・立花貞俶が1738年に築いた別邸で、立花社長が子どもの頃はまだこの場所で暮らしていたそうだ。
「第二次大戦後、立花家にはこの大きなお屋敷しか残っておらず、生きていく術を見つけようと1950年、祖父母が始めたのが料亭旅館でした。私が生まれた時はまだホテルも建っていなくて、この古いお屋敷の一番端っこに住んでいました」
祖父母が御花のビジネスの礎を作り、その息子、つまり立花社長の父・寛茂さんの代に観光事業を拡大する。4階建のホテルを建て、300人を収容できるバンケットホール(宴会用広間)を設けるなどした。
時は高度経済成長期。日本全国が観光ブームに沸いた。御多分に洩れず柳川にも大勢の観光客が押し寄せた。彼ら、彼女らが求めたのは、地元の名産・うなぎのせいろ蒸しだった。当時の柳川には団体ツアー客を数百人規模で受け入れるような飲食店はなかったため、御花にレストランを新設した。毎日のように大型バスが連なり、観光客が大挙してやって来た。
売り上げは右肩上がりだったが…
「その時代に柳川の観光地としてのネームバリューは上がりました。御花の売り上げも利益も右肩上がりだったので、(団体ツアー客を獲得する)そうしたやり方に父は何ら疑問を持たなかったと思います」と立花社長は語る。
1990年代半ばまで勢いは続いた。既にバブル景気は終わり、ピーク時よりも観光客は減っていたものの、さほど深刻な雰囲気ではなかったという。当時はまだうなぎの仕入れ額も、従業員の人件費も安かったため、まだまだ十分な利益が出ていたのだった。
しかし、そうした状況はゆっくりと御花の経営を圧迫していった。