日本史教科書は畿内説を推しはじめた
邪馬台国は、女王・卑弥呼が30もの小国をしたがえており、日本国家の成り立ちを知るうえで極めて重要だから、邪馬台国論争はすべての日本史教科書に掲載されている。けれど近年、そんな教科書の記述に変化が現れてきた。これまでは畿内説と九州説の両論を平等なかたちで併記していたが、次のような文章が登場したのだ。
「初期の前方後円墳の一つである箸墓古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」(『高等学校日本史B』清水書院、2017年)
明らかに畿内説(大和説)に偏ってきているのがわかるだろう。そして、その根拠が纒向遺跡であることが理解できるはずだ。
鍵はヤマト政権の発祥地・纏向遺跡
纒向遺跡は、奈良県桜井市の北部、三輪山の麓に広がる東西約2キロメートル、南北約1.5キロメートルの地域(面積は約2.7平方キロメートル)。域内には箸墓古墳など初期(3世紀半ば)の巨大な前方古墳がいくつも集中していることから、ヤマト政権の発祥地だと考えられてきた。
ヤマト政権は大和政権(倭王権)とも呼ばれる、日本初の全国政権である。大王(のちの天皇)を中心とする豪族の連合政権であり、やがて朝廷と呼ばれるようになっていく。この纒向遺跡に出現した巨大な前方後円墳は地方へ拡大していくが、それがヤマト政権の全国平定の過程だと考えられている。
そんな纒向遺跡で、スゴい発見が相次いでいるのだ。
同遺跡内の箸墓古墳は、昔から卑弥呼の墓だとする伝承があったが、古墳周辺から出た土器の付着炭化物を、国立歴史民俗博物館の研究グループが放射性炭素年代測定法で調べたところ、驚くべき結果が出た。西暦240年から260年という数値をはじき出したのだ。これはまさに卑弥呼の活躍していた時期と合致する。