人気マンガ『呪術廻戦』(芥見下々著、集英社)には、「呪いの王」という恐ろしい存在として「両面宿儺りょうめんすくな」が登場する。一体「両面宿儺」は史実ではどう記述されているのか。2013年に亡くなった同志社大学名誉教授・森浩一さんの著作『敗者の古代史 「反逆者」から読みなおす』(角川新書)から、一部を紹介する――。

※本稿は、森浩一『敗者の古代史』(角川新書)の一部を再編集したものです。

暗い赤い雲と明るい輝く地平線
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宿儺は悪名高い人物か、はたまた英雄か?

仁徳にんとく紀に、飛騨国にいた不思議な人物の逸話が伝わる。体は一つだが顔は二つ、手足は四本ずつあり「人民を掠略かすめてたのしみとす」と悪業を記す。

他方で、「両面宿儺りょうめんすくな」と呼ばれるこの人物を開基とあがめる寺が飛騨には一つならずある。まるで正反対ともいえる評価の落差から浮かび上がるのは、都での使役に駆り立てられた飛騨のたくみたちを守ろうとして討たれた地元の豪族としての宿儺の姿である。

仁徳天皇の時代のことである。『日本書紀』(以下、『紀』と略す)には仁徳の六十五年の条に次の話がでている。

「飛騨国に一人あり。宿儺という。為人ひととなり(生まれつき)、身体はひとつにしてふたつの面あり。面各相背きいただき合いてうなじ無し(以下続く)」の文で始まっている。

この文章によると両面宿儺は世間でいう俗称であって、本来は飛騨の宿儺なのである。宿儺は飛騨という土地の有力豪族の尊称で、姓となる前の宿禰と元は同じであろう。以下は飛騨の宿儺を使う。

話に入るまえに飛騨という地域について概観しておこう。飛騨は岐阜県北部の山国である。周囲にけわしい山々が連なり、海には臨んでいない。今日の主邑しゅゆうは高山市で、市の南にある宮峠みやとうげによって北飛騨と南飛騨に分かれる。

宿儺誕生の地は仏教がさかんだった

南飛騨の中央には、益田ました川から飛騨川と名をかえ北から南へと流れる大河がある。この川の下流は木曽川と合流して伊勢湾に注ぐ。南飛騨は太平洋水域である。縄文遺跡は多いけれども古墳や奈良時代の寺跡は知られていない。飛騨国三郡のうちの益田郡だった。

北飛騨は宮峠より北の地域で、ここには荒城あらき川から宮川と名をかえ北流して富山県に入る大河がある。下流は神通川となって富山湾に注いでいる。北飛騨は日本海水域である。

北飛騨でも荒城川と宮川流域の狭い平地には、縄文遺跡が多く、特有の大型石器の御物石器が分布する。木を加工するときに用いる抉入石斧えぐりいりせきふなどの磨製石斧を祭器にしたものであろう。弥生遺跡や古墳もすこぶる多く、出土遺物にも注意すべきものがある。

古墳後期には岐阜県でも最大規模の横穴式石室をもつ、こう峠口古墳もある。また瓦葺かわらぶきだったとみられる伽藍がらん跡も十四カ所にのこっていて、飛鳥時代後期から奈良時代にかけての仏教の隆盛ぶりが偲ばれる。当然のこととして、飛騨国の国府、国分寺、国分尼寺も宮川流域に設けられた。