実際の宿儺は屈強な体で山仕事をしていた?
仁徳紀六十五年の飛騨の宿儺の話の後半部分を見よう。そこでは宿儺の身体の特色を述べている。
両面に「各手足有り。それ膝有りて膕と踵無し。力多にして軽く捷し。左右に剣を佩きて四の手に並び弓矢を用ふ。是を以て皇命に随はず。人民を掠略めて楽とす。是に和珥臣の祖難波根子武振熊を遣して誅す」とある。なお膕は膝のうしろのくぼみである。
この話は都人の関心をひくため、宿儺の武勇と敏捷さを強調しているとぼくはみている。承和元年(八三四)四月の『太政官符』の労役を免れようとする飛騨工について述べた一節に「飛騨の民は言語容貌すでに他国に異なる」の一節がある。これは事実を言ったのではなく、仁徳紀の飛騨の宿儺の記述からえた知識であろう。
飛騨生まれの考古学者の八賀晋氏は「膝有りて膕と踵無し」とは、山仕事に従事する杣人が山の急斜面を歩くことを日常的におこなっていることから生まれた表現とみている。そうだとすると、宿儺についての描写のうち真実性のある個所といってよい。
ぼくは八賀氏と協力して昭和六十三年(一九八八)の秋から四回の「飛騨国府シンポジウム」をおこなった。そのうちの主要な論考を『飛騨 よみがえる山国の歴史』として平成九年(一九九七)に大巧社から出版した。この四回のシンポジウムでは、当然のこととして飛騨の宿儺について多方面から解析した。
都への強制連行を防ぐ頼もしい存在だった
ぼくが注目したのは仁徳紀の文章のなかの「(宿儺が)皇命に随はず。人民を掠略めて楽とす」の表現である。この個所は都の支配者の立場からの見方に徹していて、勝者の発言であることは言うまでもない。
斐陀匠たちは、古墳時代になると甘言でつられたり土地の豪族を介して、半ば強制的に都などへ連れて行かれて労働に従事させられたのであろう。それを防いだのが宿儺だったとぼくはみる。匠たちの都への連行を妨害するのだから「皇命に随はず」とみられたのであって、斐陀人にとっては当然の反抗だったのである。斐陀の人間にとっては宿儺という豪族は頼もしい存在だった。
飛騨には高山市の千光寺のように寺の開基を宿儺としているところはある。千光寺は合併前は丹生川村だった。『萬葉集』巻第七に丹生川が詠まれていることは前に述べた。千光寺は現在の飛騨地域でも屈指の大寺であり、この寺には円空が作った「両面宿儺像」が伝わっている。