「軍艦マーチ」の中、叫び続けた呼び込み

消えた仕事といえば、最近は聞かなくなったのがパチンコ店の呼び込みや店内でのアナウンスもそうだ。

昭和31年頃は呼び込みのプロもいた。北海道・札幌の繁華街の薄野では開店から閉店までの間、どの店でも声を張り上げて呼び込みをやっていた。例えばこんな調子である。

「いらっしゃいませ、みなさまの日頃のご贔屓、ご来店にばっちりとお応えいたしまして、本日も大開放中でございます。パチンコのスリルと醍醐味を味わいながら楽しいひとときお過ごしくださいませ!」

「本日のご来店誠にありがとうございます。薄野、狸小路随一の娯楽の殿堂、いこいのオアシス、銀座、銀座会館でございます。当店は若い方からご年配の方にいたりますまで幅広く楽しんで遊んでいただける最新鋭の機械を取りそろえて全機全台大開放いたしております」

「ご遊技中のお客さま、多少の運・不運もございましょうが、パチンコはやっぱり粘りに粘って、お帰りのさいはドンと景品の数々をお持ち帰りくださいませ。本日のご来店誠にありがとうございます」

午前中は「軍艦マーチ」の音楽をかけっぱなしである。手にマイクを握りながらひたすら喋りまくる。しまいには声が枯れ、ダミ声をふり絞った声が店内に響く、そんな時代だった。

パチンコ玉を換金することがない時代、通勤帰りのサラリーマンもパチンコでストレスを解消し、当たれば袋に景品を詰め込んで家路に着く。そんな時代だった。

開店準備や釘の打ち方を指導する「開店屋」

昭和20年代後半から30年代にかけてパチンコ機を製造するメーカーにも今ではいなくなった職業の人たちがいた。

全国各地を回り、パチンコ店の建設から開店の準備の指導に当たる「開店屋」と呼ばれる営業マンだ。帳簿の書き方、パチンコ機内部の釘の打ち方と調整、玉の磨き方、機械の保守、さらには店内アナウンスのシナリオ作成など、あらゆる業務を一人でこなし、指導していた。

昔のパチンコ台(記事とは関係ありません 写真=R. Fred Williams/CC-BY-SA-2.0/Wikimedia Commons

オープン後は1カ月程度店にとどまり、機械が故障すると、その場で修理し、一人でパチンコ機を作れるほどの技術を持っていたという。機械の修理や保守は閉店後の夜中が多い。店に依頼されて夜中に駆けつけるのはしょっちゅうだった。そのためしばしば警察官から職質を受けた。当時、開店屋をしていた男性はこう語っている。

「警察官から『キサマは何者だ。ちょっと署まで来い』と言われ、たびたび泥棒に間違われました。下げているバッグの中にはハンマー、ペンチ、ブリキバサミ、ハンダ付けなどが入っている。まるで泥棒の七つ道具と間違われやすい道具類を持ち歩いていたからです。『いや、違いますよ、パチンコの機械屋です』と言っても信じてくれない。パチンコのゲージ棒を出してはじめて解放してもらいました」

また、開店当日のこんなエピソードも披露する。

「パチンコ機1台ごとに釘を調整したあと、再度、故障はないかとチェックして歩いていたときでした。何かおかしいなと思っていたら、パチンコ玉の受け皿がついていないことに気づきました。開店が数時間後に迫っており、今から取り寄せる時間もありません。考えた挙げ句、店のオーナーに『戦争中に被った鉄兜はないか、探してくれ』と言いました」

終戦後から10年に満たない時代だ。鉄兜が残っている家も珍しくなかった。オーナーが探し出してきた鉄兜を受け取り、寸法を測り、鉛筆で印をつけ、近くの鍛冶屋の所在を聞き、加工してもらい、何とか急場をしのいだ。

「鉄兜は丈夫でしてね。代用品としては最適なんです。とっさの思いつきでしたが、無事に開店にこぎつけてホッとしましたよ」