もっと開いたところで議論すべきなのに…

【西田】ぼくとしては「西田論文否定派」とのパネルディスカッションでもなんでも受けて立つところです。総合格闘技が好きなので、ガチで戦いますよ(笑)。大澤さんのほかにも武田徹さんが毎日新聞にぼくの記事を受けての論考を書いてくださった。せっかく外部のメディアにまで波及しているのですから、内輪にとどまるのではなく、活字でも動画でも、もっと開いたところで議論すべきです。

【大澤】エモい記事の効果も結局、デジタル版のビュー数やSNSでの拡散数といったエビデンスで測られるわけで、最近の記者たちがもっとも気にしているのもそこでしょう。アリバイとしてであれ、そんなにビュー数が必要なら、西田さんと記者の直接対決の場をセッティングするのが一番いいに決まっている。けれど、それはやらない。理論的に筋が通らないんですよ。何をそんなに恐れているのか教えてほしい。そうでないと、理性的な討議による公共性の構築という新聞社に課せられたミッションを放棄したと言わざるをえません。

新聞を読んでいる世帯は全体の半分以下となった

【西田】正直言って、「新聞社って、こんなに否定されることが嫌だったのか」と驚いています。でも、これではとても議論できないですよね。

しかし、新聞社が批判に蓋をして、変わらずに存続できるような状況はとうに過ぎています。2023年に1世帯当たりの新聞の発行部数がついに0.49部になりました。世帯当たり部数が1を割ったのは2008年ごろでしたが、それでもまだマジョリティであることに変わりはなかった。しかしここへきて新聞を読んでいる世帯が全体の半分以下となり、ついにマイノリティになった。

図版作成=大橋昭一

こうした状況下では、「同じものを読み、同じ規範、価値観を共有している」という読者共同体は消え、新聞社の存続そのものも危うくなっていく。一方で、新聞社以外から発信される情報は爆発的に増えています。情報量がインフレ化している中で新聞に必要なのは、これまで読者共同体に向けて発信していたメッセージを増やすことではなく、情報の整理と分析、そして新しい啓蒙だと考えています。

ぼくはこれを「規範のジャーナリズムから、機能のジャーナリズムへ」と表現していて、新聞は単に情報量を増やすのではなく、減らすことも考慮しながら整理し、分析する。そのことによって価値を増し、きちんと意味を取り出したうえで情報をデリバリーする方法を考える、これを統合する機能のジャーナリズムへの転換が必要だと、これまでも言ってきましたし、件の記事にも書いています。しかし残念ながら、そこを読み取ってはもらえませんでした。

図版作成=大橋昭一