伊藤長官は異例の「作戦中止命令」を下した

【保阪】しかし沖縄には遠く及ばず、九州坊ノ岬ぼうのみさき沖で、何百機という米艦上機の攻撃によって、まず浜風が轟沈ごうちん。そのほかの艦も航行不能になる。海上に残っていたのは、傾きはじめた大和と駆逐艦四隻でした。

【半藤】この時点で、伊藤が「作戦中止命令」を出します。「有為な人材を殺すことはない」と総員退艦を命じました。そして自分は長官室に入って内側から鍵をかけ、大和と運命をともにすることになる。

【保阪】もしこのとき「作戦中止命令」が出されていなければ、残りの艦は大和から海に投げ出された乗員救助をする間もなく、沖縄に向かわなければならなかったわけですね。そうなれば、副電測士として大和に乗船していた吉田満少尉も助からなかったことでしょう。大和の乗組員だけでなく残りの艦もほとんどの乗組員が戦死していたはずです。

【半藤】「作戦中止命令」を受けて駆逐艦の四隻が海上の生き残りをどんどん拾い上げて、佐世保に帰ってきたんです。呉の大和ミュージアムに問い合わせて確認しまして、今日はメモをもって来たのですが、大和の乗組員は三千三百三十二人、そのうち戦死者が三千五十六人。したがって生存者は二百七十六人にすぎません。その他、沈没した矢矧などの乗組員が三千八百九十人で、戦死者が九百八十一人でした。

米軍の攻撃を受ける大和(写真=Naval History and Heritage Command/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

巨費を投じた「戦艦大和」の最期

【保阪】大和の戦死者は全特攻隊戦死者数より多かった。いずれにしても伊藤の「作戦中止命令」のおかげで三千人以上が助かった計算になります。あの吉田満の『戦艦大和ノ最期』も生まれていなかった。大和がいよいよダメだとなったときに、最終判断する権限は自らにありと伊藤長官があらかじめ念を押していたことが、これを可能にしました。それはまことに重要な一手でした。

それにしても、戦艦大和の建造にかかった金額は、単艦金額で二億八千百五十三万六千円、現代の価格にしてじつに二千八百六十一億八千二十二万三千円だそうです。これだけのカネをかけて造って、あんな最期はないだろうという感じはしますけどね。

【半藤】それはもうおっしゃるとおりで、あの巨砲も、レイテ沖海戦でアメリカの護送空母群と偶然に遭遇して百発撃ったといわれていますが、けっきょく一発も当たらなかった。レイテ沖で大和の砲撃をじっさいに見たアメリカ人軍人の話を聞いたことがあります。その人はクリフトン・スプレイグ提督。レイテ沖海戦では護送空母部隊の司令官でした。取材したのはアメリカのサンディエゴでした。