秀吉が嫡男・秀頼を得たころには、既に孫や曾孫もいた家康

文禄3(1594)年12月、家康は52歳で曾孫(信康の長女に長男・小笠原忠脩ただなが)が生まれ、曾祖父(ひいおじいちゃん)になる。その前年の8月、豊臣秀吉にやっと嗣子・秀頼が生まれて大騒ぎだった。そんな頃に曾孫ができていたなんて……。

文禄4(1595)年3月に53歳で八男・平岩仙千代せんちよが生まれる。母・お亀の方19歳は石清水八幡宮の社家・志水しみず宗清むねきよの娘で、はじめ、美濃齋藤家の旧臣・竹腰たけのこし正時まさときに嫁ぎ、竹腰正信(1591~1645)を産んで死別した。ついで、豊臣家臣・石川光元みつもとの側室となり、石川光忠みつただ(1594~1628)を生んだが離縁され、文禄3(1594)年に家康に見初められたという。

お亀の方はその翌年に仙千代を生むが、慶長4(1599)年に家臣・平岩親吉ちかよしの養子に出され、翌慶長5年に早世する。あくまで推測の域を出ないが、家康は仙千代が先夫の子じゃないのかと疑い、自分に似ていないと確信して、親吉に預けたのだろう。「この後、面倒なことになる前に始末してくれ」と。

将軍を引退し「大御所」となってからも子作りに励んだ

同文禄4年(翌慶長元年10月説あり)に四女・松姫が生まれた。母・お久の方は、小田原合戦で伊豆山中城を守った北条家臣・間宮康俊やすとしの娘。

慶長5(1600)年9月、家康は関ヶ原の合戦で勝利を収め、事実上、天下人となった。その翌々月の11月、58歳で九男・尾張徳川義直が生まれる。母はお亀の方。今度は間違いなく自分の子なので、義直は大切に育てられ、尾張徳川家の祖となる。

慶長7(1602)年3月に60歳で十男・紀伊徳川頼宣よりのぶが生まれる。母・蔭山殿かげやまどの22歳は上総勝浦城主・正木まさき頼忠よりただの娘で、母親が再縁した蔭山氏広うじひろの養女。

慶長8(1603)年2月に家康は征夷大将軍に任ぜられ、同年8月に61歳で十一男・水戸徳川頼房が生まれる。母は蔭山殿。翌慶長9年7月、秀忠に次男・徳川家光が生まれる。

家康の十一男で水戸徳川家の祖である徳川頼房の肖像『原色再現江戸大名家藩祖の肖像画』(画像=治済/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

慶長10(1605)年4月に家康は将軍職を秀忠に譲り、駿府(静岡市)に移って大御所となるのだが……。慶長12(1607)年1月に65歳で五女・市姫が生まれる。母・英勝院えいしょういん27歳は北条家臣・太田康資やすすけの娘、江戸城を築いた太田道灌どうかんの子孫と称す。