50歳で六男と七男が生まれるが、母の身分が低すぎて養子に

天正20(1592)年1月、50歳で六男・松平忠輝が生まれる。七男・松平松千代は文禄3(1594)年生まれ説もあるが、実際には忠輝と双子だったらしい。母・お茶阿ちゃあの方(年齢不明)は庶民の娘で鋳物師の妻。代官が夫を殺して自分のものにしようとしたが、お茶阿は鷹狩り中の家康に直訴。そのまま側室になった。

中村孝也氏はその著書『家康の族葉』で、家康が天正11年に「五男信吉を儲けてのち、まる十年間子供ができなかったのに」天正20年になって急に、六男・忠輝をもうけたのは奇異だと感想を述べている。おそらく、あさひを継室に迎えたので、彼女が死去するまで、子どもをもうけなかったのであろう。さすがは家康、「律儀な内府だいふ(=内大臣)」である。換言するなら、その間、家康は子どもが生まれないようにしていた可能性が高い。

お茶阿の方は、家康の側室の中でももっとも身分が低い。家康からすると、身分の低い女とは子どもをもうける気などなかったのに、お茶阿の方が勝手に子どもを生んでしまった――と思ったのではないか。

七男・松千代を生後間もなく長沢松平家の養子に出し、六男・忠輝も生まれた翌年に皆川みながわ広照ひろてるの養子とされた。松千代が慶長4(1599)年に死去すると、忠輝が代わりに長沢松平家の養子とされた。二人の子がさっさと他家の養子に片付けられてしまったのは、望まざる出産だったからだろう。