鹿児島では寺院と僧侶が完全に姿を消した

当然、神道と混在していた仏教は邪魔になる。

そこで明治政府は、1868(慶応4)年に神と仏を切り離す法令である神仏分離令を発して仏像・仏具を排斥し、僧侶に還俗を迫った。

それを拡大解釈した者たちが過激化し、為政者や市民が仏教寺院や慣習をことごとくこわしてまわったのである。この廃仏毀釈は1870(明治3)年ごろにピークを迎え、その後も断続的に1867(明治9)年ごろまで続いてゆく。

特に水戸・佐渡・松本・伊勢・土佐・宮崎・鹿児島などの廃仏毀釈が激しかった地域では、徹底的に寺院が破壊された。寺に祀られていたお地蔵さまは首を刎ねられ、梵鐘などの金属類は没収されて偽金づくりに充てられた。

中でも薩英戦争をきっかけに西洋化を急いだ薩摩藩(鹿児島)における廃仏毀釈は苛烈を極め、明治初期、寺院と僧侶が完全消滅、恐れをなした僧侶の中には仏僧の立場を捨てて神官に転じた者もいたという。

生き残るため、朝廷にすり寄った仏僧たち

日本仏教の中心地である奈良や京都でも、大量の文化財が破壊された。

東大寺、法隆寺、薬師寺、西大寺、唐招提寺などでも多くの貴重な仏像が焼かれ、中でも徹底した廃仏毀釈が行われたのが興福寺だ。

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興福寺では、建物が打ち壊され、国宝級の仏像が毀損されたり、国内外に持ち出されたりして、事実上の廃寺と化した。さらには境内の鹿たちまでが、狩られてすき焼きにされたというから驚きである。

さらに明治新政府は、神仏分離令に続いて、上知令を出す。上知とは、寺社の土地を召し上げることである。江戸時代に15万6463坪を有していた京都の清水寺は、1万3887坪まで減少。高野山は756万坪を上知されている。

中でも、江戸時代に幕府権力に迎合することで拡大していった浄土宗、天台宗、真言宗、臨済宗などは、上知令によって相当なダメージを受けた。

西郷隆盛、大久保利通など、明治維新に関わった中心人物たちが、ことごとく廃仏毀釈の激しかった地域の出身者であることは、日本がその後、世界大戦へと突っ込んでゆくシナリオに照らし合わせると興味深い。

彼らは、尊王倒幕の裏で仏教を確実に弱体化させていったが、時代の移り変わりを察知した仏僧の中には、生き残りをかけて「献金」という形で朝廷にすり寄る動きをする者たちが現れる。