「天皇の名の下に行う戦争」に加担していった
1863(文久3)年には、東西本願寺が朝廷に一万両を献上した。西本願寺第20世門主大谷光沢の遺言には「現世には皇国の忠良となり、罔極の朝恩に報ひ、来世には西方の往生をとげ、永劫の苦難を免るるみとなられ候やう」の言葉ある。つまり「天皇に忠義を示し、天皇から授かったこの上もない恩義に報いることで、死後は極楽に往生し、この世の苦から逃れることができる」と説いているのである。
この遺言に代表されるように、天皇の名の下に国家が行う戦争と、仏教が説く不殺生のギャップを埋めるための大義名分の数々がその後、仏教各宗門で作られ、広がってゆく。
そして、天皇の道(皇道)と仏教を合一させた皇道仏教なる思想が生まれ、日本仏教界は戦争する国家に自ら参画、協力する道を突き進んでいった。
それでも日清戦争の頃までは、まだ上海や北京などに別院を建立し、布教、従軍僧として軍隊の慰問、戦死者の慰霊、捕虜に対する慰問や説法といった活動だった。ところが日露戦争以降、第二次世界大戦のピークに至るまでの協力活動は、どんどん過激さを増していき、最終的には戦闘機や軍艦の製造、献上といった戦争協力にまで至ったことは、先述の通りだ。
もちろん、こうした戦争協力は何も仏教界だけに限定された話ではない。日本中の経済界も、教育界も、宗教界も、新政府の圧力、軍の圧力、社会の同調圧力に押されて、日本全体がかの悲惨な戦争に突っ込んでいった。
現代の僧侶たちに「真実」が伝わっていない
1945年8月15日、冒頭に述べた玉音放送によって、日本が連合軍に無条件降伏した旨が、国民に伝えられた。そしてこれが日本の終戦の日となった。
しかし世界の多くの国では、9月2日が第二次世界大戦の終結だとされている。その理由は、日本がポツダム宣言を含む降伏文章に調印した日だからである。
いずれによせ私自身、宗門の大学や大学院で学び、日本を代表する専門僧堂で行を修めたにもかかわらず、鵜飼氏のによる『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』の「仏教の大東亜戦争」を読むまでは、日本仏教の戦争協力やそこに至るまでの歴史的経緯について詳しく知ることはなかった。
私だけではなく、戦争を知らない多くの僧侶たちも知らないだろう。なぜなら、それは日本仏教のタブーであり、どこでも教えられることがなく、語られることもなかったからだ。