「ミンミン」でも「ツクツクボウシ」でもない
斎藤茂吉は、現地調査を行ない、7月13日に、まだアブラゼミが鳴いていないことを確認した。そして、誤りを認めて、芭蕉の句のセミはニイニイゼミであることを認めたのである。
現在、この俳句で詠まれたのはニイニイゼミであると結論づけられている。
ニイニイゼミは梅雨の時期から、他のセミに先駆けて鳴き始める。
ミンミンゼミはミンミンと鳴く。ツクツクボウシはツクツクボウシと鳴く。ニイニイゼミの名前も鳴き声に由来すると言われているが、ニイニイゼミの鳴き声はニイニイとは聞こえない。ニイニイゼミは、「ヂー」という感じの鳴き声である。そのニイニイゼミの声が岩にしみこんでいくようだと詠まれているのだ。
セミがしきりに鳴いているのに、芭蕉は「閑さや」と詠んだ。
「古池や蛙飛びこむ水の音」の俳句では、水の音を詠むことで、飛び込んだ後の静けさが際だった。
「閑さや」の句でも、芭蕉は鳴きしきるセミの鳴き声の中にこそ、他の音がない静かさを感じたのだ。
17文字の中にある「動と静」「生と死」
この俳句で、芭蕉は鳴いているセミと岩の静寂の「動と静」の対比を詠んでいる。
セミは短い命の象徴である。セミは生きている。その声は岩にしみこんでいる。岩は生きていないものの象徴だ。つまりは「生と死」の対比でもある。
芭蕉はたった17文字の中に「動と静」「生と死」という無限の世界を表現したのだ。
しかも、セミの声が静けさを表わし、セミの声は岩にしみこみ、「動と静」「生と死」は溶け合っていく。何という世界観なのだろう。
もっとも、山寺という場所を訪ねてみると、その世界観はごくごく当たり前のことのようにも感じられる。
山寺の名で知られる山形県の立石寺は、けわしい山中に寺が開かれ、切り立った絶壁に多くのお堂が建てられている。まるで、この世のものとは思えない別世界である。芭蕉が詠んだのは、まさにこの不思議な世界観だったのだ。