夏目漱石の句に対して植物学者が「事実ではない」
落ちざまに 虻を伏せたる 椿哉 夏目漱石
ツバキは花びらが散るのではなく、花ごと落ちていく。
花が落ちていく途中で、飛んでいるアブとぶつかったのだろうか。あるいは、ちょうど落ちたところにアブがいたのだろうか。地面に落ちたツバキの花がアブを閉じ込めてしまった。何ともユニークな光景である。
それにしても、何という偶然を目撃したのだろう。漱石は、自分の目の前で起こった偶然の奇跡を俳句に残したのである。
しかし、である。漱石が目にしたというこの光景は、はたして事実なのだろうか? 本当にこんなことが起こりうるのだろうか?
この俳句が発表された当時から、その真偽は、物議をかもしていた。夏目漱石の俳句に対して著名な植物学者の牧野富太郎博士は「めったにあることではなく、事実を伝えてはいないと思います」と書いた。
地面に落ちたツバキの花がアブを閉じ込めるようなことなどあるのだろうか。
検証してみよう。
ツバキは花の軸の方が重たいので、パラシュートのように軸が下に落ちる。そのため、花が下になることは少ない。
もっとも、風で飛ばされることもあるし、地面に落ちた勢いでうつ伏せになることはある。そのため、まったくないとは言い切れない。
俳句も文学のひとつ
それでは、アブの方はどうだろう。
アブは体に生えた感覚毛で空気の流れを感じることができる。さらには、体の節の一つ一つには小さな脳のようなものが存在している。この小さな脳が個別に体の部位を動かすので危機を回避する反応速度が速いのだ。
アブなどの昆虫を新聞紙で叩こうとしても察知してすぐに逃げてしまうのは、そのためだ。だから、空中で花といっしょに落ちることもないし、地面にいたアブが花を避けられないはずはない。
おそらく起こりえないような光景である。
どうやら、この光景は漱石の頭の中の空想なのだろう。
しかし、「それは真実ではない」と目くじらを立てるのも、どうかしている。
確かに俳句も文学なのだから、空想を遊ぶ部分があっても楽しいだろう。おそらくは、夏目漱石にとっては、俳句もまた空想世界を遊ぶ文学だったのかも知れない。
夏目漱石の作品を思い返してほしい。何しろ、ネコが「吾輩は猫である。名前はまだ無い」と読者に自己紹介をするのだ。
猫が平気でしゃべるくらいだから、夏目漱石の俳句の世界で何が起こったとしても、まったく驚くには値しないのだ。