中華統一の活力のもとになった負の記憶

③一九歳(前二四一年)の秦王には、合従軍の侵入によって国の存亡を左右される危難があった。東方五ヶ国の合従軍が、秦都の咸陽近郊まで侵略したのである。咸陽近郊の地と、祖父孝文王の陵墓の地を攻められた。

統一後の述懐から、嬴政の心にはこのときの負の記憶が一生残ったことがうかがえるが、それが嬴政の中華統一の活力のもとにもなった。再び攻め込まれないように、合従軍の結成を阻止し、東方六国を分断する必要がある。これは当時典客(外交官)を務めていた李斯の外交力と、将軍たちの働きで実現できた。そのようななかで信頼する蒙驁将軍を失ったのは大きかった。

④二二歳(前二三八年)のときにも、母と対立したことで大きな国難が訪れた。前年にも嬴政の弟・成蟜せいきょうが反乱を起こしていたが、その翌年に最大の内乱が起こったのである。母とその愛人・嫪毐ろうあいが反乱を起こし、秦国の中央を二分する内戦が起こった。

このときは、嫪毐に政権を奪われる危険があった。これを救ったのは、嬴政側に就いた昌平君、昌文君に代表される大臣や桓齮かんきらの将軍たちであった。呂不韋は処刑され、外国人排斥に反対した李斯が代わって嬴政を支えていくことになった。

みずから戦場に赴き危険に身を投じる

⑤三三歳(前二二七年)、前年に母を失った嬴政に突然、暗殺未遂という大きな危機が振りかかった。えんの太子丹が派遣した荊軻けいかが秦王の面前まで近づき、秦王を襲ったのである。このときは、みずからの剣で身を守った。暗殺されてもおかしくない状況を救ったのは、嬴政自身の生きる力であったと思う。嬴政はこの危難をバネにして六国を攻撃していった。

⑥三〇歳から三八歳(前二三〇〜前二二二年)にかけては、東方六国との十年戦争の渦中にあった。秦王として、時にみずから戦場に足を運び、危険のなかに身を投じた。王翦おうせん王賁おうほん蒙武もうぶ蒙恬もうてんら秦の将軍たちの行動と、東方六国を分断し、合従の暇も与えなかった李斯の策略がうまく機能した。

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秦王自身が戦地に赴く行動力は、将軍たちのよりどころでもあったが、秦の戦争にはいつでも敗北の危険はあった。実際、対楚戦ではいったんは二〇万の軍で敗北したが、六〇万もの軍で態勢を立て直した。若い李信、蒙恬の将軍たちは失敗し、老将軍の王翦が危機を救ったのである。三六歳の嬴政は、楚の旧都のちんに入り、将軍や兵士たちの士気を高めた。