渋沢の「自分だって三井や三菱に負けなかった」発言

晩年、渋沢栄一は「わしがもし一身一家の富むことばかりを考えたら、三井や岩崎(三菱)にも負けなかったろうよ。これは負け惜しみではないぞ」と子どもたちに語ったという。カッコイイけれど、栄一はどんなにがんばってもやっぱり三井・三菱には勝てなかったと思う。

岩崎弥太郎の肖像(1874年、画像=世界の歴史まっぷ/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

他の例を見ると、大倉財閥の創始者・大倉喜八郎は、栄一と同じく初物好きで、産業連関に関係なく、興味ある事業に手を出していった。喜八郎の死後、残された番頭たちは、まずその脈絡のない事業の整理からはじめねばならなかった。

跡継ぎの大倉喜七郎は戦後ホテルオークラを創業したくらいなので、優秀だったのだが、実態は父と同じだった。創業は好きだが、守成は苦手。好きな産業(ホテル・観光)にしか興味を示さない。当然、父の遺業の整理には向かない。番頭たちから、喜七郎は趣味人で無能と思われていた。喜七郎の才能が開花するのは、財閥が解体された戦後のことだった。

仮に渋沢財閥ができても同じ道をたどったと思う。渋沢栄一は第一銀行への思い入れが強く、子どもたちを銀行に入れたが、誰一人として続かなかった。父親や周囲の思惑と、子どもの興味・適性は異なるのである。

三井と三菱は経営向きの学卒者を大量採用して財閥を築いた

大倉喜八郎の死後、大倉財閥が混迷したのは、後継者が育っていなかったからだ。ただし、三井・住友は財閥当主が直接経営しなくても、有能な番頭たちが経営をリードすればどうにかなる。

三井・三菱が成功したのは、学卒者を定期的に大量採用することに積極的だったからだ。

たとえば、銀行業務でソロバンをやらせたら、大卒社員より商業高校出身者の方が秀でているだろう。しかし、今後の経済状況を俯瞰し、銀行がどういう方向に進んでいけばいいか。事務合理化をどのように進めていけばいいか。それにどれくらい経費をかけることが可能か……といった、実務ではなく経営戦略を立案して組織運営する話になると、大卒の方が一日の長がある(むろん個人差はある。確率の話である)。

1943年に第一銀行が三井銀行と合併すると、三井に比べて学歴の劣る第一銀行行員は不遇をかこい、不満が爆発して5年後に再分離している。換言するなら、栄一は学卒者の採用に必ずしも積極的ではなかったということだ。

これは栄一のビジネススタイルに大きく影響している。