盟友・藤孝への手紙に書いてあったこと
ただ、光秀の娘である玉(細川ガラシャ)を嫁がせ、親密な間柄であった細川氏ですら、光秀につかなかったことが、他の戦国大名たちにも影響を与えたことでしょう。このため、光秀につく大名は、思いのほか少なく、結果、山崎の戦いで秀吉らの軍勢に敗れ、敗走中に命を落とすのでした。
光秀は、細川藤孝を味方に引き入れるべく書状を送っていますが、そこには信長を討ったのは決して私利私欲のためでなく、藤孝の息子の忠興や、自分の息子の十五郎(光慶)のためであり、その地盤をつくったら家督を譲って隠居するという内容が書かれていました。
相手を説得するためならどうとでも言うだろう、まあ信じるに足りないな、と思っていたのですが、近年、もしかしたらこれは口からの出まかせではない可能性も出てきたのです。
歴史学の学説として、かろうじて科学的に認められるのは「石谷家文書」という確かな史料がある四国征伐阻止説のみ、と先に述べましたが、これと同じように同時代の史料として、本能寺の変をリアルタイムに報じ、解説を付した宣教師のレポートが、キリスト教会から見つかったのです。
宣教師が残した「本能寺の変」の真相
私は直接、イタリア語やスペイン語で読むことができないので、その内容を詳しくここで述べることができないのですが、現在、日本近世史・外交史を専門とする慶應義塾大学の浅見雅一先生が、その翻訳と分析・解釈に取り組んでおられます。
仄聞するところによれば、その内容は、光秀の嫡子・十五郎がキリスト教の洗礼を受けようとしていたのですが、信長によって討たれそうになり、光秀は十五郎を守るべく先手を打ち、信長を討ったのだ、というもの。
なぜ信長が光秀の息子を殺そうとしたのかと言えば、裏切りの例ではないですが、これも先例があることなのです。
たとえば、同盟相手である徳川家康の嫡男・信康を、武田氏と内通していた嫌疑で殺させたという説もあります。そこには、光秀が藤孝に宛てた手紙にあるように、次の世代のことを考えてのことだったのかもしれません。息子の代のことを考えると、その脅威になる次の世代の有力者は早めに芽を摘んでおこうとしていたのではないか、ということです。
そのように考えると、柴田勝家には養子はいましたが実子はいません。羽柴秀吉も晩年になるまで実子はできませんでしたから当然いない。滝川一益にも息子はいない。そうなると、光秀の嫡男さえ排除できれば、織田家の独裁が可能となるということです。
家臣に厳しい織田信長も割と子供には甘かったのではないでしょうか。長男の信忠は織田家の家督を継がせて跡取りに、次男・信雄には伊勢を、三男・信孝には四国をというふうに、大した手柄を立てていなくても、それぞれ息子たちにはしっかりと領地を配分しています。
ともあれ、同時代の史料である宣教師のレポートに、どんな新発見があるのか、今後の研究成果が楽しみです。