才能でしか人を見ない異常さ

だからこそ、敏景は「越前国の政治は、越前の人間で行うべきだ」「どんなに才能がある者でも、他国の人間は信用できない」という発想の上に立って、右のようなことを述べたのです。いかに自分の本拠地となる「国」が、戦国大名にとって重要だったかがよくわかります。

あくまでも、自分の国の人間が仲間であり、他の国の人間はそうではない。国の重要な決定をしなければならない内政においては、他国の人は、どんなに優秀な人間であっても用いることはしない。このような方針は、他の戦国大名の人材登用を見ても、かなりスタンダードだったと言えます。

こうした戦国大名のあり方からすると、織田信長の抜擢人事は、ほとんど異常とも言えます。政治は同国人だけで行うという原則にはとらわれず、才能があるとみなした者は、どんどん抜擢していく。これが織田家臣団の特徴でした。

織田信長像
織田信長像(画像=Bariston/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

農民身分の羽柴秀吉を抜擢し、ほとんど経歴のわからない滝川一益を起用するなど、そうした登用を平気でやっています。そもそも、明智光秀にしても、織田家で登用されるまで、いったい何をやっていたのかよくわからない人物です。

比叡山焼き討ちで目覚ましい功績を上げたからか、光秀は坂本城を与えられ、城主になります。このように城持ち大名として城を与えられたのは、織田家では光秀が初めてです。歴代の家来を差し置いて、中途採用の光秀に坂本城を与える。信長は、人間を才能一本で見ていたということでしょう。

裏切られることの連続だった信長の人生

しかし、このような抜擢人事には、どうしても波風が立ってしまうものです。才能一本で評価するということは、言い換えるならば、出世するためには、いかに手柄を立てるかが勝負になってくるわけで、そこには絶えず競争があり、それを励みにする者もいれば、そのために妬みを抱く者だって出てきます。

越前なら越前、尾張なら尾張と、国内の地縁・血縁・世襲でまとまるならば、ずば抜けた人材はいなくとも、こうした能力に基づく競争などはなく、まとまりのある家臣団として安定していたでしょう。

しかし、織田家臣団のように、前歴は不明だけれど、才能ある人間を抜擢するならば、当然、競争は激化し、その過程で抜擢人事に不満を抱く者も出てくることになります。その結果、信長は家臣や同盟者に裏切られることが多かったのです。

妹のお市の方を嫁がせてまで同盟を組んだ浅井長政には裏切られ、「主君殺し」の風評を持つ松永久秀には、その風評には目をつぶり雇い入れたにもかかわらず、二度も裏切られました。

摂津の国持ち大名に抜擢した荒木村重にも、信長は裏切られています。荒木もまたどこの馬の骨かわからないような人物ですが、自分が任命されると思っていた対中国地方、対毛利方面軍司令官に秀吉が任ぜられたことを不服に裏切ったのだと思います。なんとも、いかにもな理由です。