なぜ明智光秀は主君・織田信長を討ったのか。東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは「最近になって当時の宣教師のレポートが見つかった。そこには、光秀は嫡男を守るべく先手を打ち、信長を討ったと書かれていた」という――。(第2回)

※本稿は、本郷和人『喧嘩の日本史』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。

明智光秀像
明智光秀像(画像=本徳寺所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

織田信長と他の戦国大名の決定的な違い

どこの馬の骨でも使える人間は使う。才能のある者をどんどんと抜擢していく信長は、その点でも、当時の他の戦国大名とはかなり異なっていました。

前章でも述べたように、普通の戦国大名は、自分の本拠地は動かさず、領地を拡大したとしてもあくまでもそれは本拠地を守るための戦いでした。しかし、信長はそれを線的に考え、領地拡大とともに次々と本拠地を動かしていきます。それは彼の雇用人事観にもよく表れています。

たとえば、越前の朝倉氏は、応仁の乱に乗じて越前を奪い、戦国大名となった、まさに下剋上の草分けのような存在です。その後、一乗谷で5代100年にわたる栄華を誇りました。その朝倉の初代・孝景(朝倉敏景とも言います。朝倉家には孝景が二人いるので、以降は敏景とします)は、「朝倉敏景十七箇条」と呼ばれる家訓のようなものを残しています。

例を挙げると、「重い立場の人間でも、その息子の代までそのまま重い立場に就くことができるとは思うな」「戦の際には占いなどで作戦を決めるようなことはするな」というように、敏景の合理的な精神が窺えます。さすがに主君を追い落として、自分の実力だけで越前国を奪っただけのことはあります。

そんな合理的思考の持ち主の敏景でしたが、「十七箇条」のなかには「内政については他国の者はなるべく用いるな」という教えも含まれていました。現代の私たちからすれば、「国」とは日本全体を指し、「自分たちは日本人だ」という意識を持っているかと思います。しかし、戦国時代には、「俺たちは越前人だ」「俺たちは越後人だ」というようなまとまりで、人々は生きていたのです。