突然終わった幸福な結婚生活
こうした紫式部の「強さ」には宣孝も降参し、結婚生活は進んでいった。おそらく長保元年(999)には、2人の間の唯一の子である賢子が産まれ、紫式部は父が留守で夫が時折、通いくるだけの屋敷で、一人娘を育てることになった。
その後、紫式部は七夕に、次のような歌も宣孝に送っている。
「天の川逢ふ瀬を雲のよそに見て絶えぬちぎりし世々にあせずは(天の川の逢瀬は雲の彼方のよそごとだと思って、それより私たちは、今夜は会えなくても、切れることがない仲がずっと変わらなければよいと思います)」
なんだかんだいって、夫婦仲はよかったようである。ところが、長保3年(1001)4月25日、宣孝は病死する。九州発の疫病が流行していた折から、感染した疑いもある。紫式部は結婚からわずか2年半で、寡婦になってしまうのである。