本格的な修理がすぐに行われなかったワケ

このとき大天守は、軸部の傾斜を防ぐ筋交い柱がはめられ、各階の梁の下が支柱で補強された。屋根の補修や壁面の塗り替えも行われた。姫路城でこの手の補修が行われたのは、記録にあるかぎり文久元年(1861)が最後だった。それから50年を経てやっと修理が施されたのだが、これ以上放置されれば、かなり危険な状況だったようだ。

ただし、歩兵第十連隊の管轄下にあった西の丸は修理の対象から外れたため、櫓や多門などは軒が崩れ、壁は破れ、倒壊の危険性が生じた。修理の請願が何度も出され、ようやく大正8年(1919)に修理されている。

しかし、保存に向けた本質的な動きは、昭和4年(1929)の国宝保存法を待たなければならなかった。それまで、文化財保護に関する法律は古社寺保存法があるだけで、対象も古社寺にかぎられていた。国宝保存法が施行され、保存対象が城郭などの世俗建築にも広がると、姫路城では昭和6年(1931)1月に天守が、続いて12月には74棟の現存建造物が、旧国宝に指定された。

その後、昭和9年(1934)6月に豪雨の影響で、西の丸の「タの渡櫓」から「ヲの櫓」にかけて石垣もろとも倒壊。翌年にも「ルの櫓」の下の石垣が崩れ、西の丸全体が国の直轄で修復されることになった。

「米軍が城を標的から外した」はウソ

そして、西の丸の工事を進めながら、文部省保存課によって、大天守以下すべての建造物の破損調査が行われ、国宝指定建造物の詳細な現状記録がつくられた。その結果、姫路城全体が危険な状況にあることがわかった。こうして、いよいよ大修理が実施されることになったのである。

昭和の大修理は、昭和10年(1935)から33年(1958)にかけて、戦争による中断をはさんで実施された。じつは姫路城は、この修理が行われるのがあと一歩遅れれば、崩壊および倒壊してもおかしくないほど、危機にさらされていたという。

だが、その修理の最中に、空襲によって灰燼に帰する危険性があった。

姫路市は昭和20年(1945)6月22日、および7月3日深夜から4日未明にかけ、大規模な空襲に遭った。前者は、主として川西航空機姫路製作所がねらわれたが、後者では、飛来したB29爆撃機が約2時間にわたって姫路市全域に焼夷弾を落とし、総戸数の40%が焼失している。

姫路城は奇跡的に無傷で、市民のあいだでは「米軍が城を標的から外した」という逸話が語られもしたという。しかし、そんなことはなかったようだ。

テニアン島の飛行場から次々と出撃するB29(写真=米国政府/PD US Air Force/Wikimedia Commons