定子に「皇子を産め!」と迫った意味

むろん、その時点では、道隆は自分の命が遠からず尽きるとは思っていなかっただろう。まだ定子も一条天皇も若すぎるが、早晩、定子が皇子を産めば、道隆はその外祖父だ。行く行くは外孫を即位させ、天皇の外祖父として自身の家系、すなわち中関白家の栄華をさらに盤石にする、という青写真を描いていたと思われる。

一条天皇像(部分)[画像=別冊太陽『天皇一二四代』(平凡社)/真正極楽寺蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

その時点では、道隆は一条天皇に、定子以外の入内を許していなかった。しかし、父親である自分が死んで後ろ盾がなくなれば、ほかの公卿たちも娘を入内させようとするだろう。それに、いくら中宮の座に就いていても、皇子を産んでいなければ、定子の存在が中関白家の支えにならない。

だから、道隆は焦って、定子に「皇子を産め!」と迫った。史実において、そういう応酬があったかどうかは、史料に記されてはいないのでわからないが、いかにもありそうな場面ではあった。だが、いうまでもなく、皇子は「産め」といわれて産めるものではない。

道隆はほかに、関白の職を長男の伊周(三浦翔平)に譲りたいと一条天皇に請願したが、道隆の妹で一条天皇の母である詮子(吉田羊)の意向を受け、却下されている。詮子は道隆の専横ぶりを苦々しく思っていたのである。

結局、4月27日に、道隆の弟の道兼(玉置玲央)を関白にする詔が下ったが、道兼も5月8日、疫病のために急死。その3日後に、道長を内覧(天皇に奏上する文書を事前に見る役割で、職務は関白に近い)にする宣旨が下った。以後は道隆の生前の願いもむなしく、道長の世となる。

一条天皇と定子の夫婦円満は不都合

もっとも、政権が道長に転がり込んだのは、たんなる偶然とはいえない。この時点で道長は権大納言だったのに対し、道隆の遺児の伊周は、すでに内大臣にまで出世しており、その意味では、伊周が政権を担うのが順当だった。

だが、そこにおいても詮子の意向が働いたのだろう。『大鏡』には、詮子が内裏の清涼殿夜御殿に押しかけ、一条天皇を説得して道長の内覧就任の宣旨を出させた、という話が記されている。そのまま史実とは断ぜられないにせよ、このような駆け引きがあったことがうかがえる。

ただし、こうして中宮定子が中関白家の後ろ盾を失っても、一条天皇の彼女への寵愛は変わらなかった。

木村朗子氏は「藤原氏の政権とは学問の叡智に頼らず、性愛によって天皇をとりこめていく政治体制であり、それがとりもなおさず摂関政治の内実なのである」と書く(『紫式部と男たち』文春新書)。そうした現実のもと、一条天皇が定子を寵愛したままの状況が続くということは、道長の政権が安定を欠くことを意味する。このため、道長は定子を徹底的にいじめるのである。