徹底して排除された定子の血筋

長保元年(999)、定子はふたたび懐妊した。このため、内裏から竹三条宮に退出することになったが、このとき道長は露骨な妨害工作を行っている。同じ日に宇治への遊覧を企画してそこに公卿たちを呼び、彼らが定子のお供ができないようにしたのだ。

とはいえ、後宮を制さないかぎり、道長の権力基盤は安定しない。そこで、道長はまだ12歳にすぎない長女の彰子の入内を画策し、11月1日に実現させたが、同じタイミングで大きな悩みを抱えることになった。彰子を女御にするという宣旨が下った同じ11月7日、定子が待望の第一皇子、敦康親王を出産したからだ。

焦った道長が思いついたのは、兄の道隆が講じた以上の奇策だった。道隆は中宮が皇后の別称であるのに目をつけ、ほかに皇后がいるのに定子を中宮にしたが、皇后と中宮は別の天皇の后だった。ところが、道長がねらったのは、同じ一条天皇の后として定子に加えて彰子を立てる「一帝二后」だった。

ちょうど太皇太后の昌子内親王が亡くなったので、その空席に彰子を就け、同じ一条天皇の后として皇后と中宮を並立させる――。それは実現された。

それでも一条天皇は定子を寵愛したが、長保2年(1000)12月、第三子の媄子を出産した定子は、その直後、わずか24歳で亡くなってしまった。一条天皇は悲しみを隠そうともしなかったというが、そんな天皇に参内を求められながら、道長は参内していない。

定子が産んだ敦康親王は、その後、彰子が養育したが、その彰子が寛弘5年(1008)、敦成親王を出産すると、道長にとって敦康親王はもはや邪魔な存在でしかなかった。結局、皇位継承権も奪われたが、天皇の第一皇子でありながら即位できないのは、きわめて異例のことだった。

権力のために後宮を制する。道長の強い意志の前には、定子どころか一条天皇も無力だったのである。

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