没落後はだれも浮上しなかった
この「長徳の政変」の最中、兄弟をかくまった定子も髪を下ろして出家。それでも一条天皇の定子への寵愛はやむことなく、長保元年(999)11月、皇子を出産したが、一度は出家した身であるため「尼のくせに」という非難を浴びている。そして、翌長保2年(1000)暮れ、第2皇女を出産した直後に亡くなった。享年、わずかに24だった。
一方、伊周と隆家の兄弟は、配流された翌年の長徳3年(997)の夏、赦免されて上京を許された。母である東三条院詮子の病気が平癒するようにと、一条天皇が大規模な恩赦を実施したのだった。
その後、伊周は、寛弘2年(1005)に昇殿を許されるまでに立場を回復するが、かつての勢いとはくらべるべくもない。寛弘7年(1010)、失意のうちに37歳で世を去った。隆家は66歳まで生きて長久5年(1044)に没したが、大臣や大納言になることはなかった。
藤原道隆の中関白家の栄華は、頂点をきわめながらも、わずか5年しか続かず、その間に行われた道隆の強引な身びいきは、その後、後継にとってはそのままツケとなって回ったのである。