「〜だからやらなきゃ」を強く否定

またその行為は、自分と社会を豊かさから遠ざける利己心、他者とのバランスを考えずに一人勝ちを狙う心と向き合っていくという、在家者がなすべき修行でもあります。

このようにして当たり前に何かを提供する、人に与えていくという世界観が育まれているため、寺がとても自然に運営されており、地域のコミュニティ形成にもつながっているのです。

これが日本でも実現したらなあ……とうらやましく思います。

「奉仕したから○○してもらえるだろう」「〜だからやらなきゃ」などと見返りを求めることを、釈迦牟尼は強く否定しています。

見返りとはトレード、つまり「取引」が背景にある考えです。「損得」「ギブアンドテイク」という言葉があるように、現代に生きるわれわれの思考は、トレードに基づいたものになりがちです。

トレードが悪いわけではありませんが、世の中にはそれとは別の、与える喜びや関わる喜び、そしてそこに自分が存在できている喜びもあるということを、忘れないようにしたいものです。

とはいえ、最近ではカーシェアやシェアハウスなど、これまで個人が所有していたものをみんなで共有しようとする動きが出てきました。ここに来て仏教の思想に近い価値観が見直されてきたことに、示唆的なものを感じます。

仏教的な価値観が現代人にフィットする理由

「家を捨ててしまいなさい」という原始仏教の教えをそのまま持ち込むわけにはいきませんが、選択肢を広く取るという意味で、古代インドの多拠点生活には参考にできる点が大いにあると考えます。

古代インドには仏教以外にも、バラモン教やジャイナ教などいろんな思想哲学や教えがありました。それぞれの哲学や教えにそれぞれのフォロワー(支持者層)がいたわけですが、興味深いのは、仏教を支持したのはおもに商人たちだったということです。

この事実は、いくつもの研究で明らかにされています。

当時の商人といえば、ロバやラクダとともに、あるいは船に乗って国境を越え、異民族とも出会いながら商売をしていました。そのように移動する人たちだからこそ、ホームを持たない思想の仏教が刺さったのではないでしょうか。

松波龍源『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』(イースト・プレス)

国境を越えて往来する生活だと、生まれ故郷の神様に心を寄せるというよりも、場所や状況に左右されない、大きく普遍的な真理が求められたのは必然ではないかと感じます。

テクノロジーが進歩し、人の流動性が活発になった時代に生きるわれわれは、さまざまな価値観やバックグラウンドを持つ人たちと関わっていかなければいけません。古代インドの貴族、商人、農民のどれに私たちが近いかといえば、商人だと思うんです。

このことは、私たちが生き方を考える“よすが”になるのではないでしょうか。現代は、釈迦牟尼が説いた教えがフィットする土壌になりつつあると、私は感じています。

関連記事
【第1回】出世して給料が上がっても、幸せになれない…資本主義の「しんどさ」から脱却するために必須の仏教的な視点
「ただ生きて死ぬだけ。人生に意味はない」モヤモヤがスーッと晴れて心がラクになる仏教の教え
77歳で入居「6000万円の高級老人ホーム」をなぜ2年で退去したのか…住んでわかった「終の棲家」の理想と現実
ニュータウンは「とてつもなく退屈な街」に…郊外の住宅地が嫌われ、都心回帰が進んでいる3つの理由
実は賃貸に住む建築家が多い理由…プロがこっそり教える「住宅会社が絶対に言わない"住まい"の真実」