「家に縛りつけられるのは不合理」

けれど彼女は仲間とグループを作り、グループでシェアハウスごと移動するのです。荷物は一人につきスーツケース二つほど。Airbnbなどのサービスを使って当座の居場所を確保し、しばらくそこで生活して飽きてくると、グループで相談して「次、行こっか」と新しい拠点に移る。

途中で「ちょっと疲れたから、しばらく実家に帰るわ」というメンバーもいますし、少し経つと戻ってくる人もいる。戻ったときには、別の拠点に移動していることも多いんだそうです。

とてもおもしろいですよね。彼女の「家に縛りつけられるのは不合理だと思うんです」という言葉にハッとさせられました。

たしかに「家」を決めてしまうと、何か移動したいと思う出来事が起きても「敷金を払っているし」「ローンを組んでしまったし」と動きが制約されがちです。

お金と家の問題について話す男女
写真=iStock.com/takasuu
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固定した「家」を持たないことで、いろんな可能性が広がっていくのです。私たちは無意識のうちに、自分の居場所を決めなければいけないと思い込んでいることに気づかされます。

もちろん彼女も「素敵な家具を見つけたら、固定した部屋が欲しいなと思うこともあるんですけど」ということが時にはあるようですが、その取り組みから「ああ、お釈迦様はこういうことをおっしゃっていたのだ」と考えさせられました。

どうして彼女の言葉が、釈迦牟尼の思想につながるのか? それを考えるにはまず、仏教が始まった約2500年前のスタイルをお伝えする必要があります。

仏教は多拠点生活をスタンダードとして始まった

仏教が始まった古代インドでは、仏教者に限らず思想家や修行者の多くは定住しないスタイルで生きていました。

釈迦牟尼は執着が苦しみを生むと考えていた人ですから、自分の拠点や持ち物を持たないことをポリシーにしていました。一方でインド各地の人々は、釈迦牟尼から直接話を聞けるとありがたいですよね。

そこで、その土地の貴族や商人などが協力して、「ここにお泊まりください」と釈迦牟尼が滞在するための場所を作っていました。

その場所に逗留して、ひとしきり説法をしたり相談に乗ったりする。区切りがつくと次の国や町へ赴く。移動した先にも土地の人々が作った同じような滞在施設があり、そこで説法や問題解決をしていく……という生活を送っていたのです。

このスタイルは、まさに多拠点生活です。これら滞在施設の一つ一つが、現在の寺院の原型となっています。必要があれば出現するし、必要がなくなれば消滅していくのです。

現代の日本の仏教では寺というと、何百年も前からずっとそこにあって、「住職」という守り人のような人がおり、その住職が維持しなければならない、まさに「家」のようなものという印象がありますが、元来はそうではなかったのです。