そうしたら電通が怒って、こんなやつのいるテレビ局には広告スポンサーを回さないぞと脅しをかけてきた。当時の東京12チャンネルなんて小さい会社ですから、電通から広告スポンサーをもらえなくなったら潰れてしまいますよ。局の上司である役員が「電通の批判はやめろ」と僕に言ってきた。「それが嫌なら局を辞めろ」というんだね。

僕は電通批判と会社とどちらもやめなかった。そうしたら、2カ月後に、管理監督責任を問われて僕の上司である常務、局長、部長が処分された。仕方なく僕は局を辞めざるを得なくなった。事実上のクビです。

撮影=遠藤素子
机の上には書籍の壁。写真右下の小さなスペースで執筆をしている

東京12チャンネルを退職した田原氏は、1977年、フリージャーナリストになった。「失敗」がきっかけであったとはいえ、今日の田原総一朗に至る道へとなっていく。

局をクビになってフリーになったのだし、電通について好きなように書きたいと、いろんな出版社に企画を持ち込んだ。『週刊朝日』が書いてほしいとOKをくれて連載をすることになった。第1回の原稿を書いて送ってから、3日後ぐらいのことだったと思う。編集部が「書き直してください」と言ってきた。詳しくは訊ねなかったけど、たぶん掲載前の原稿を電通に見せたんでしょう。

「クビになってよかったと思う」

それで僕は、取材を通じてとても親しくなっていた電通の広報責任者でもあった専務の木暮さん(剛平氏・のちの社長)に会いに行ったんです。「僕はなにも電通を倒そうと思っているわけではない。日本は民主主義の国で、言論の自由がある。電通は言論の自由に反対なのですか」と。

1時間ばかり話したら、木暮さんが「よくわかった」というんです。「われわれ電通もいままでどおりの仕事の仕方でいいのかどうか試行錯誤の最中なんです。田原さん、どうぞ自由に書いてください」と。あのとき、木暮さんが怒っていたら、僕の連載は中止になったかもしれません。

連載は大評判となり、単行本化されるや、電通のタブーに初めて切り込んだノンフィクションとしてベストセラーになった。1984年に『電通』として朝日文庫化となって読み継がれ、作家・大下英治氏のデビュー作『小説電通』と並んで激賞された。

フリーを名乗ったところで、ダメになるだけだと思っていました。おそらく、3カ月、半年と仕事がなかったら食い詰めて、人生に絶望したと思う。

でも、そんな不安を覚える間もなく、すぐに『週刊文春』や講談社など、大手の出版社、新聞社から次々と「うちでも書いてくれ」というようになってきた。東京12チャンネルを辞めざるを得なくなったことが、逆にでっかいチャンスになったんですね。結果的にはクビになってよかったと思う。フリーになって自由に書けるようになりましたからね。どんどん仕事が来るようになった。本当にありがたかった。収入もどんどん増えました。

撮影=遠藤素子
テレビ局をやめるのは怖くなかったのだろうか。その質問に田原さんは「やめてダメになると思った」「不安を覚えるまでもなくどんどん仕事が入ってきた」とほほえんだ