ハイジャック救出事件で唯ひとり犠牲になった兄

【佐藤】過激派のテロリストは、エール・フランス139便をハイジャックし、乗客・乗員256人とともにウガンダのエンテベ空港に強行着陸しました。150人は解放されましたが、イスラエル人、ユダヤ人、合わせて106人が人質となりました(うち1人は病院へ搬送)。イスラエル政府は直ちに特殊部隊を現場に急派します。そしてテロリスト全員を射殺します。ウガンダ兵約100人が死亡し、ウガンダ空港のミグ戦闘機など多数が破壊されました。人質は3人が死亡したものの、残り102人は救出され、救出作戦としてはほぼ完璧な出来栄えでした。こうしたなかで、唯ひとり犠牲となったのがネタニヤフの兄のヨナタンだったのです。

【手嶋】後に、この作戦は指揮官の名をとって“オペレーション・ヨナタン”と呼ばれることになりました。ヨナタンは、まさしく“イスラエルの英雄”なのです。しかし、最愛の兄を失ったネタニヤフ家をどれほど悲しませたことか。この悲劇は後の強硬派の指導者を誕生させる伏線になりました。

【佐藤】このエンテベ事件に際して、イスラエル政府内では、激しい意見の対立がありました。人質の人命を優先し、相手の要求を受け入れてパレスチナ人テロリストの釈放もやむなし。これに対して、テロリストの脅迫には屈するべきでなく、武力で人質を解放すべし。結局、時のラビン首相は、武力で人質を救出する作戦を命令します。しかし、その強硬策が成功すると考えていた人は少なかったといいます。

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兄の死を機に「テロには決して屈しない」との信念

【手嶋】兄のヨナタンこそ、その難しいミッションを成功させた立役者でした。弟のベンヤミンにとって、指揮官ヨナタンは終生大切な存在となりました。テロには決して屈すべきではない――その信念は、兄の死と分かちがたく結びついているのです。

【佐藤】ベンヤミン自身も、アマンの特殊部隊マトカルに入隊します。1967年の第三次中東戦争、1973年の第四次中東戦争に出征し、サベナ航空572便のハイジャック事件でも対テロ作戦で活躍しています。

【手嶋】もっとも危険な任務をこなす特殊部隊で実戦に参加しているのですから、筋金入りの軍人だったのですね。実際に戦闘で肩を撃たれて負傷し、それがもとで退役しています。もし自分が元気なまま特殊部隊にいれば、エンテベ空港事件で兄を守ってやれたはず――そうした無念の思いがあったといいます。

【佐藤】長兄ヨナタンは、尊敬する肉親であり、共に命を賭けて戦った戦友でもある。そんな兄を憎きテロリストによって喪った。その痛みは、ネタニヤフという政治家のテロに対する強い姿勢を決定づけたのでしょう。そこにユダヤ人の苦難の歴史、パレスチナ回復を目指すユダヤ人たち「シオニスト」としてのイスラエル建国への思いが重なると思います。ネタニヤフが何を心に期して政治の道に入ったのかは推して知るべしでしょう。