日本は本当に「民主主義国家」なのだろうか。比較文学者の大嶋仁さんは「ユダヤ人哲学者のポパーは『反証可能性』を説いた。ところが今の日本は、団結を重んじ、満場一致の拍手喝采で終わる会合ばかりだ。これは全体主義で、民主主義とは言えない」という――。

※本稿は、大嶋仁『1日10分の哲学』(新潮新書)の一部を再編集したものです。

哲学者カール・ポパーの写真
哲学者カール・ポパーの写真(画像=DorianKBandy/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

ポパーの「反証可能性」「アドホック」

初めてカール・ポパーの名前を聞いたのは大学生の時だ。広い教室に受講者はわずか。若い先生が熱心にこの革新的な哲学者について語っていた。

その頃、ポパーはまだ日本では知られていなかった。翻訳書も出ていたかどうか。先生の声が「反証可能性」「アドホック」などの言葉を繰り返していた。その時はピンと来なかったが、今になってなるほどと思う。

大学の講義とはそんなものだ。興味が湧かないでいる場合でも、無意識のほうが反応して、大事そうな言葉を記憶の貯蔵庫にしまい込む。そして必要な時が来ると、鮮明なイメージとともに蘇る。

アドホックといえば、そういう名のカフェがあった。場所は覚えていないが、妙な名前のカフェだと思ったものだ。店主はこの言葉の意味がわかっていただろうか。

アドホックは「その場しのぎ」のことだ。「コーヒーを喉に流し込みたい」ととりあえず入ってみるカフェがアドホック? だが、そんなことは店主にはどうでもよく、音の響きが気に入っただけなのだろう。