言葉は生もの、絶対の「正解」はない
敬語を「使われる側」のときについて考えてみましょう。部下から「この本、拝読してもらえますか」などと謙譲語を使われたり、それほど親しくないと思っている人から「あ、どうも。久しぶり」とタメ語を使われると、不愉快になることはありませんか。
そこで私からの提案です。敬語の失敗に対して、太っ腹な気持ちで接してみてはいかがでしょうか。たとえ尊敬語を使うべきシーンで間違って謙譲語を使われたとしても、敬語を使おうとしている時点で「この人は私に敬意を示したいのだな」とわかるはずです。タメ語を使われたときは、「この人は、自分と親しくなりたいと思っているんだな」と考えればよいと思います。
言葉は大事ですが、もっと大事なのは相手の気持ちです。この言葉によって何を伝えたいのか、バカにしているのか、敬意を示したいのかはすぐにわかるはずです。言葉は発するほうの配慮も大切ですが、受け取る側が相手の意図を汲む姿勢も大切です。
冒頭でも言った通り、敬語に絶対の正解はありません。少し前まで正しいとされていた言葉も、時代によって変わっていくからです。「させていただく」も、ブレイクする前までは、「させてくださる」のほうが一般的でした。
また、言葉には「敬意漸減」といって、人々に使われているうちに敬意が薄らいでいくという特性があります。今の50〜60代の人たちが30年前に覚えた言葉と、今の言葉は違うのです。たとえば「あなた」とか「きみ」という言葉。一昔前は相手を尊重した丁寧な言い方でしたが、今は「おまえ」のような突き放した意味が込もった言葉になっています。その「おまえ」にしても、かつては「御前」と相手を敬う意味がありました。
こうして敬意が薄れるからこそ、敬語のインフレーションが起こり、敬語は変わっていくのです。「拝見させていただきます」といった二重敬語もよく見かけるようになりましたが、正しいとか間違いとか論じる前に、これもある意味自然な現象なのです。
ですから話す側も、100%正しい日本語を使わなくてもいいや、という鷹揚な気持ちが必要です。確かに、正しい敬語を使うことで信頼度が上がるので、適切に使いこなすに越したことはありません。ですが、「気持ちを伝える」ということにおいては、必ずしも厳密さは必要ありません。
言葉は明らかな誤用であっても、全体の6割の人が使い始めたなら、その時代の正解になってしまうもの。そう思うと、敬語一つにカリカリしても仕方がないと思いませんか。上の立場になった人は、彼らに見本を示しつつ、若い人たちから「今はその言葉、使いませんよ」と教えてもらえるような近い関係性を築き、彼らからも学びながら敬語をアップデートしていってはいかがでしょうか。
私たちは言葉をいろいろな形で使い分けます。だからこそ辞書的な意味以上のメッセージが伝わるのです。その点で、AIが文章を書くような未来が到来しても、人と人との関係性で成立する敬語は生き続けると思います。