どうしても史実と違う城になる

天守の消失後、天守台も焼けただれたため、幕府は加賀(石川県)藩主の前田綱紀に命じて、あらたに築き直させた。むろん、天守を再建する予定だったからだが、時の将軍、4代家綱の叔父の保科正之が、天守はたんに遠方を眺めるためのもので、いまは町の復興を優先すべきだと主張。これが受け入れられ、再建は中止された。

つまり、現存する天守台は、再建される天守が載っていたものではないのだ。当時、木造部分はほぼ同規模で再建する計画だったから、この天守台上に建てることもできるが、石垣の高さが違う。現存するものは高さ約12メートルと、家光時代より2メートルも低いのである。

現在見ることができる江戸城天守台(写真=CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

現存する天守台上への復元自体は可能なはずだが、それでは高さが史実と異なってしまう。だからといって、2メートル分の石を積み増せば、歴史遺産の改変になってしまう。

保科正之が再建に反対したのだから、天守がない江戸城こそが江戸城だ、という主張もあるが、それは違う。予算の関係で天守の再建が後回しにされたにすぎず、幕府は資金さえあれば再建したかったのだ。

しかし、石垣の問題は、史実優先という観点から考えると容易にはクリアできない。私はいまのところ回答を見つけられない。

なぜ名古屋城は完全復元できるのか

一方、昭和34年(1959)に鉄筋コンクリート造で外観復元された天守の老朽化を機に、しばらく前から木造復元が具体的に検討されている名古屋城天守には、江戸城のような問題はない。

名古屋城天守の価値を確認してほしい。

名古屋城の天守と本丸御殿(写真=名古屋太郎/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

慶長17年(1612)12月に完成し、昭和20年(1945)5月14日の名古屋大空襲で焼失したこの天守も、「天守建築の最大かつ最高傑作」という点で江戸城に劣らなかった。木造部分の高さは36.1メートルと、豊臣秀吉の大坂城天守より一回り以上大きく、4424平方メートルの延べ床面積は、のちの家光の江戸城をも上回って史上最大だった。

五重塔のように下階から上階に向けて床面積が規則的に逓減する層塔型は、その当時、最新の様式で、厚さ約30センチの壁の内側には、厚さ12センチのケヤキやカシの横板が埋め込まれ、史上最高の防弾性能を誇った。使われた木材は、丈夫で耐久性が高いが非常に高価な木曽ヒノキがほとんどで、その点でも史上もっとも豪華な天守だった。

この天守は建っていた天守台が残っており、江戸城のような問題はない。その石垣が劣化し、はらむなどしているという問題はあるが、修復作業が進行中だ。また、焼失前の天守については細部まで記録されており、史上最高レベルの精密な復元が可能なのである。