絶対に「リュック」は背負わない

母は終戦後ほどなく、43歳の若さで亡くなった。堀野さんは22歳、一番下の妹はまだ5歳か6歳。母代わりを担うこととなったが、一番苦労したのが食料難だ。電話局で働くほか、今でいう副業のように着物を縫うことでも家計を支えていた堀野さん。食料を買うお金が手元にあっても、そもそも売っていないがために買うことができなかった。

編集部撮影
写真は堀野さんが刺繍したもの。「電話局のシフトで夜勤明けの時は、夕方に行けばいいから、合間にお裁縫ができたの。着物を縫ってほしいと染物屋に頼まれて、一度引き受けたら、どっさり依頼が来るようになって」(堀野さん)

「自分で縫った着物を持って、おばあちゃんと一緒に、知り合いの農家まで何十キロも歩いて行きました。そこで着物を、米やメリケン粉に替えてもらって。私が今、ポーラ化粧品を持って歩いていると『重いでしょ。リュックを背負ったら』って言われるけど、私は、リュックは絶対に背負わないの。リュックに着物をいれておばあちゃんと歩いては、食料をもらいにいった、当時の辛い記憶を思い出すから……」

写真提供=ポーラ
通勤中の堀野さん。荷物が多い日も、絶対にリュックは持たない

「姉ちゃんを、僕にください!」

夫になる男性は、堀野さんの遠縁に当たる人物だった。早稲田大学の学生時代、大臣の月給ほどの高額の仕送りを受け、悠々と暮らしてきたボンボンだ。男性が職探しをすると聞いた智子さんの父が家に招き、しばらくの間同居することとなったことが出会いとなった。

「きっと私が夫に見込まれたのは、母親代わりに弟と妹の面倒を見ていたから。全然、苦労してない人だから、自分も世話になりたいと思ったんじゃないですか。晩御飯の途中に急に父に言ったの。『姉ちゃんを、僕にください!』って。いまだに覚えているよ」

下の子たちはみんな、「姉ちゃん」と呼んでいたから、夫となる人にとっても「姉ちゃん」だった。その申し出がまんざらでもなかったのは、「格好良かったから」。イケメンだから結婚に乗った、と堀野さんは当時を思い出して、コロコロと笑う。

夫は高学歴が仇となりしばらくは職が見つからなかったが、数年後、福島市で公務員試験を受けて県庁職員になった。ほどなく、子どもが3人生まれ、一人で家事と子育てをこなす日々が始まった。夫は妻の苦労などつゆ知らず、悠々自適なボンボンのままだった。

給料日の次の日、玄関には空っぽの袋が…

「出世が早くて、部下たちを連れて飲み歩くようになって。全部ツケだから、給料日になると、お店の人が集金に来るのね。給料日の次の日、玄関に行くと給料袋が置いてあるから見たら、中身は明細書だけで空っぽ。『どうやって暮らすの?』と言ったら、『しょうがないな、泥棒でもしてくるか』と笑って出て行って。これは頼っていられない。自分で働こうと思って内職を始めたんです」

薬のアンプルの箱を100個作ると、150円になる仕事だった。コツを掴んだ堀野さんは、そのうち1日に300個作れるようになり、月末にもらえる金額は4500円にもなった。しかし、月末までは手元に現金がない。どうやって食べていくか。

「近所の店で『通い帳』を作ってもらえるか相談したら『いいですよ』って。それに何を買ったかつけてもらって買い物をして、1カ月3700円になった。私の内職で、お釣りが来たので安心したのを覚えています」